肩と肩がふれた。森本はギョッとして肩をひいた。
 ――のどが乾いた。冷たいラムネでも飲みたい。何処かで休んで、話しない?
 少し行くと、氷水《こおり》店があった。硝子のすだれ[#「すだれ」に傍点]が凉しい音をたてゝ揺れていた。小さい築山におもちゃの噴水が夢のように、水をはね上げていた。セメントで無器用に造った池の中に、金魚が二三匹赤い背を見せた。
 ――おじさん、冷たいラムネ。あんたは?
 ――氷水にする。
 ――そ。おじさん、それから氷水一ツ。
 森本を引きずッて、テキパキともの[#「もの」に傍点]をきめて行くらしい女だと分ると、彼はそれは充分喜んでいゝと思った。彼はこれからやっていく仕事に、予想していなかった「張り」を覚えた。
 ――で、ねえ……。
 のど[#「のど」に傍点]仏をゴクッ、ゴクッといわせて、一息にラムネを飲んでしまうと、又女が先を切ってきた。
 ――途中あんたから色々きいたことね、でも私ちがうと思うの。……会社が自分でウマク宣伝してるだけのことよ。女工さんは矢張り女工さん。一体女工さんの日給いくらだと思ってるの。それだけで直ぐ分ることよ。
 お君は友達から聞いた「芳ちゃん」のことを、名前を云わず彼に話してきかせた。
 ――友達はその女が不仕鱈《ふしだら》だという。でも不仕鱈ならお金を貰う筈がないでしょう。悪いのは一家四人を養って行かなければならない女の人じゃなくて――一日六十銭よりくれない会社じゃない? ――あんただって知ってるでしょう。会社[#「会社」に傍点]をやめて、バアーの女給さんになったり、たまには白首《ごけ》になったりする女工さんがあるのを。それはね、会社をやめて、それからそうなったんでなくて、会社のお金だけではとてもやって行けないので、始めッからそうなるために会社をやめるのよ。――会社の人たちはそれを逆に[#「逆に」に傍点]、あいつは堕落してそうなったとか、会社にちアんと勤めていればよかったのにと云いますが、ゴマかしも、ゴマかし!
 森本は驚いて女を見た。正しいことを、しかもこのような鋭さで云う女! それが女工である!
 ――女工なんて惨めなものよ。だから、可哀相に、話していることってば、月何千円入る映画女優のこととか、女給や芸者さんのことばかり。
 ――そうかな。
 ――それから一銭二銭の日給の愚痴《ぐち》。「工場委員会」なんて何んの役にも立ったためしもないけれども、それにさえ女工を無視してるでしょう。
 ――二人か出てるさ。
 ――あれ傍聴よ。それも、デクの棒みたいに立ってる発言権なしのね。
 ――ふウん。
 ――氷水お代り貰わない?
 ――ん。
 ――あんた仕上場で、私たちの倍以上も貰ってるんだから、おごるんでしょう。
 お君は明るく笑った。並びのいゝ白い歯がハッキリ見えた。森本はお君の屈託のない自由さから、だんだん肩のコリ[#「コリ」に傍点]がとれてくるのを覚えた。お君はよく「――だけのこと」「――という口吻《こうふん》。」それだけで切ってしまったり、受け答いに「そ」「うん」そんな云い方をした。それだけでも、森本が今迄女というものについて考えていたことゝ凡《およ》そちがっていた。――こういうところが、皆今迄の日本の女たちが考えもしなかった工場の中の生活から来ているのではないか、と思った。
 ――会社を離れて、お互いに話してみるとよッく分るの。皆ブツ/\よ。あんた「フォード」だからッて悲観してるようだけれども、私各係に一人二人の仲間は作れるッて気がしてるの。――女ッて……
 お君がクスッと笑った。
 ――女ッて妙なものよ。一たん方向だけきまって動き出すと、男よりやってしまうものよ。変形ヒステリーかも知れないわね。
 ――変形ヒステリーはよかった。
 森本も笑った。
 彼は河田からきいた「方法」を細かくお君に話し出した。するとお君はお君らしくないほどの用心深い、真実な面持で一々それをきいた。
 ――やりますわ。みんなで励げみ合ってやりましょう!
 お君は片方の頬だけを赤くした顔をあげた。
 氷水屋を出て少し行くと、鉄道の踏切だった。行手を柵が静かに下りてきた。なまぬるく風を煽《あお》って、地響をたてながら、明るい窓を一列にもった客車が通り過ぎて行った。汽罐《ボイラー》のほとぼりが後にのこった。――ペンキを塗った白い柵が闇に浮かんで、静かに上った。向いから、澱んでいた五六人がすれ違った。その顔が一つ一つ皆こっちを向いた。
 ――へえ、シャンだな。
 森本はひやりとした。それに「恋人同志」に見られているのだと思うと、カアッと顔が赤くなった。
 ――何云ってるんだ。
 お君が云いかえした。
 彼女は歩きながら、工場のことを話した。……顔が変なために誰にも相手にされず、それに長い間の無味乾燥な仕事のた
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