ので、森本にはまだ親しみが出ていなかった。彼は膝を抱えて、身体《からだ》をゆすっていたが、煙を出すために窓を開けた。急に、波のような音が入ってきた。下のアスファルトをゾロ/\と、しっきりなしに人達が歩いている。その足音だった。多燈《スズラン》式照明燈が両側から腕をのばして、その下に夜店が並んでいた。――植木屋、古本屋、万年筆屋、果物屋、支那人、大学帽……。人達は、方向のちがった二本の幅広い調帯《ベルト》のように、両側を流れていた。何時迄見ていてもそれに切れ目が来ない。
――暇な人間も多いんだな。
――鈴木君、顔を出すと危いど。
河田が謄写版刷りの番号を揃《そろ》えていたが、顔をあげた。
――顔を出すと危いか。ハヽヽヽ、汽車に乗ったようだな。
――じァ、やっちまうか……。
灰皿を取り囲んで四人が坐った。
――森本君とはまだ二度しか会っていないから、或いは僕等の態度がよく分っていないかと思うんだ……。
河田は眉をひそめながらバットをせわしく吸った。
――手ッ取り早く云うと、こうだと思うんだが……。これまでの日本の左翼の運動は可なり活発だったと云える。殊に日本は資本主義の発展がどの分野でゝも遅れていた。それが戦争だとか、其他色ンナ関係から急激に――外国が十年もかゝったところを、五年位に距離を縮めて発展してきた。プロレタリアも矢張り急激に溢《あふ》れるように製造されたわけだ。そこへもってきて、戦争後の不景気だ。で、日本の運動がそこから跳ねッかえりに、持ち上ってきたワケだ。然し問題なのは、その「活発」ッてことだ。何故活発だったか、これだ。――僕らにはあの「三・一五事件」があってから、そのことが始めてハッキリ分ったんだが……手ッ取り早く云えば、工場に根を持っていなかった[#「工場に根を持っていなかった」に傍点]という事からそれが来ていた。それも「大工場」「重工業の工場」には全然手がついていなかったと云ってもいゝんだ。Yをみたってそうだ。労働組合の実勢力をなしているのが、港の運輸労働者だ。それはそれ/″\細かく分立している。それに実質上は何んたって反自由労働者で、職場から離れている。だから成る程事毎に動員はきくし、それはそして一寸見は如何にもパッとして華やかだ。日本の運動が活発だったというのは、こゝんとこから来ていると思うんだ。然し何より組織の点[#「組織の点」に傍点]から云ったら、零《ゼロ》だった。チリ/\バラ/\のところから起ったんだから、終ったあとも直ぐチリ/\バラ/\だ。統計をみたって分るが、その間大工場は眠っている牛のように動かなかったんだ。――工場が動きづらい理由はそれァある。ギュッ/\させられている小工場は別として、何千、何万の労働者を使っている高度に発達した大工場となると、とても容易でないのだ。――容易でないが、「大工場の組織」を除いて、僕らの運動は絶対にあり得ないのだ。早い話が、この近所に小さい争議を千回起すより、夕張と美唄二つだけの炭山にストライキを起してみろ。日本の重要産業がピタリと止まってしまう。これは決して大それた事でなくて、ストライキは必ずこういう方向に進んで行かなければならない事を示していると思うんだ。――今迄の繰りかえしのようなストライキはやめることだ。だから……どうも、何んだかすっかり先生らしくなったな……。
河田が「臼」を一撫《ひとな》でした。
――ま、詳しいことは又色んな時にゆっくりやれるとして。とにかく今になって云うのも変だが、「三・一五事件」で、何故僕らがあの位もの要らない犠牲を払ったか、ということだ。それは、さっき云ったあの華々しい運動をやっていた先輩たちが、非合法運動なのに、今迄の癖がとれず、時々金魚のように水面へ身体をプク/\浮かばしていたところから来てるんだ。工場に根をもった、沈んだ仕事[#「沈んだ仕事」に傍点]をしていなかったからだ。――実際、僕たちの仕事が、工場の中へ、中へと沈んで行って、見えなくなってしまわなければならなかったのに、それを演壇の上にかけのぼって、諸君は! とがな[#「がな」に傍点]ってみたり、ビラを持って街を走り廻わることだと、勘ちがいをしてしまったのだ。――日本の運動もこゝまで分ってきた…………。
――ところが、本当は仲々分らないんだよ。恐ろしいもんだ。
石川が河田の言葉をとった。銀紙のコップをバットの空箱に立てながら、何時ものハッキリしない笑顔を人なつッこく森本に向けた。
――ボロ船の舵《かじ》のようなもので、ハンドルを廻わしてから一時間もして、ようやくきい[#「きい」に傍点]てくるッてところだ。今迄の誤ッてた運動の実践上の惰勢もあるし、これは何んてたって強い[#「これは何んてたって強い」に傍点]。それに工場の方は仕事はジミだし、又実際ジ
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