は「ナッパ服」とゝもに「H・S」の誇りだったのだ。
 ――余裕? 然しこの少しの無理のない決議はこれ以上どうにもならないのですから。
 ――然し、こっちの……。
 森本はくさび[#「くさび」に傍点]を打ち込まなければならない。
 ――こんな困難な、どんなことになるか分らない時に、その日暮しゝか出来ない我々は、せめてこの機関[#「機関」に傍点]だけを死守しなければならない所へ追いつめられているわけです。さっきから何人も何人もの職工がこゝの壇へ飛び上って、この要求が通らなかったら、全員のストライキに噛じりついても、獲得しなけア駄目だと云ってるのです。我々は勿論ストライキなど、望んでるわけではありません……。
 ストライキ! 「今」この言葉が専務と工場長にこたえ[#「こたえ」に傍点]ない筈がないのだ。カムチャツカの六千六百万罐の註文!
 ――……。
 職工たちはなり[#「なり」に傍点]をひそめた。
 森本はもう一つ重要な先手を打たなければならなかった。
 ――勿論「金菱」のことでは、専務自身としても色々と一緒に御相談したいこともあることゝ思いますが……。
 専務は急に顔を挙げた。森本は思わずニヤリ! とした。然し、彼は無遠慮にその手元へ切り込んだ。
 ――然しそれがすべて、この要求書が承諾され、規約の中にハッキリそうと改正されてからの事にしたら、お互いに相談が出来ると思われます。……でなかったら私たちの方が全く可哀相です。
 ――………………。
 専務はさっきのさっき迄、この「労働者大会」を自分のために[#「自分のために」に傍点]充分利用することを考えていた。自分に対する全職工の支持を決議させて「金菱」が新しく重役を入れることに対して全職工|挙《こぞ》って反対させる。各自が醵金《きょきん》して、職工と社員の「上京委員」を編成し、関係筋を歴訪、運動させる。――殊に、今度のことが自分一個人の問題でないことが好都合だった。その証拠には、職工たちでさえ自発的に集会を持つところまで来ているではないか。だから、専務は、職長から職工の集会のことを聞いたとき、彼等の周章てゝいるのとは反対に、かえってほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑んだのだ。こう意気が合ってうまく行くもんでない。と。でなかったら、専務は直ぐにも警察へ電話をかけるがよかった。それをしなかったではないか。――が、今専務は明かに、職工の自分に対する気持を飛んでもなく誤算していたことに気付いた。又、こんな形でやって来られるとは思いもよらなかった。誰か後にいる! 然し「Yのフォード」はこうも脆《もろ》いものか。労働者って不思議なものだ。――してやられたのだ! そして、もう遅かった!
 ――じゃ、二三日中……。
 専務は自分でもその惨めな弱々しさに気付いた。
 ――二三日中! 然し「金菱」は二三日待ってくれるわけはありません。
 ――……。
 森本は勝敗を一挙に決してしまわなければならない最後の「詰め手」をさしているのだ!
 ――……。
 五百の労働者の耳は、専務のたった一つの言葉を待っている。専務の味方をするものも、飛んでもない会合に出てしまったと思う職工たちも、こゝへくるともう同じだった。五百人の労働者はたった一つの呼吸しかしていなかった。
 ――………………。
 誰か一番後で、カタッと靴の踵《かかと》を下した音が聞えた。
 ――明日の時間後まで……。
 波のようなどよめきが起ったと思った。次の瞬間には、食堂をうちから跳ね上げるような轟音になって「万歳」が叫ばれた。
 彼はたゞ、眼に涙を一杯ためて、手をガッシリと胸に握り合せ、彼の方を見つめているお君を、人たちの肩越しにチラリと見たと思った……。

          二十一

 河田がどんなに待っているだろう。あの「二階」で河田は居ても立っても居られないで、待っているだろう。――だが、森本は一体今日のこの素晴しい出来栄えを、どういう風に、どこから話したらいゝか分らなかった。お君も同じだった。
 二人は河田に情勢報告をし、専務の返答如何による対策をきめ、すぐ帰って、仲間の家で開かれる細胞集会に出なければならなかった。「二階」に上る前には、必ず二度程家の前を通って、様子を見てからにされていた。――二人は道の反対側の暗いところを通りながら、二階をみた。電燈はついていた。別に人影はなかった。下の洋品店に、顔見知りのおかみさんが帳場に坐りながら、表を見ていた。――ひょいと、こっちが分ったらしく、顔が動いたようだった。
 と、おかみさんは眼の前の煙でも払うように、手を振った。それは「駄目々々」という合図らしかった。
 ――変だな。
 立ち止っていることが出来ないので、そのまゝ通り過ぎた。少し行って、又同じところを戻った。四囲《あたり》に注意しなければなら
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