ビラのことは食事中ちっとも誰もの話題にならなかった。
 飯が終って、森本が遅く階段を降りてくると、段々のところ/″\や、工場の隅々に、さっきのビラが無雑作にまるめられたり、鼻紙になったり、何枚も捨てられているのを見た。――彼はありありと顔を歪《ゆが》めた。

          二

「H・S製罐会社」は運河に臨んでいた。――Y港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居り、その一帯に運河が鑿《ほ》られている。運河の水は油や煤煙を浮かべたまゝ澱《よど》んでいた。発動機船や鰈《かれい》のような平らべったい艀《はしけ》が、水門の橋梁の下をくゞって、運河を出たり入ったりする。――「H・S工場」はその一角に超弩級艦のような灰色の図体を据えていた。それは全く軍艦を思わせた。罐は製品倉庫から運河の岸壁で、そのまゝ荷役が出来るようになっていた。
 市《まち》の人は「H・S工場」を「H・S王国」とか、「Yのフォード[#「Yのフォード」に傍点]」と呼んでいる。――若い職工は帰るときには、ナッパ服を脱《ぬ》いで、金ボタンのついた襟《えり》の低い学生服と換えた。中年の職工や職長《おやじ》はワイシャツを着て、それにネクタイをしめた。――Y駅のプラットフォームにある「近郊名所案内」には「H・S工場、――約十八町」と書かれている。
 Y市は港町の関係上、海陸連絡の運輸労働者――浜人足、仲仕が圧倒的に多かった。朝鮮人がその三割をしめている。それで「労働者」と云えば、Yではそれ等を指していた。彼等はその殆んどが半自由労働者なので、どれも惨《みじ》めな生活をしていた。「H・S工場」の職工はそれで自分等が「労働者」であると云われるのを嫌った。――「H・S工場」に勤めていると云えば、それはそれだけで、近所への一つの「誇り」にさえなっていたのだ。
 
 森本は仕事台に寄っても仕事に実《み》が入らなかった。――彼は今日組合のビラが撒《ま》かれることは知っていたし、又そのビラが撒かれたときの「H・S工場」内の動きについて、ある会合で報告しなければならないことになっていた。だが、見ろ、こんな様《ざま》をオメ/\と一体誰に報告が出来るものか。職工の一人も問題にしないばかりか、巡査上りの守衛から、工場長さえ取り合いもしない。ビラの代りに、工場の中に虻《あぶ》か蜂の一匹でも迷いこんだ方が、それより大きな騒ぎになるかも知れない
前へ 次へ
全70ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング