監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」
「こんなこと内地《くに》さ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」
「んさ。――こったら事って第一あるか」
スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始めた。水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り廻っていた。それ等のなかを、監督は鶏冠《とさか》を立てた牡鶏《おんどり》のように見廻った。
仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、炭山《やま》から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた。
「生命《えのぢ》的《まと》だな!」それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を衝《つ》いた。「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生《え》きられないなんてな。――瓦斯《ガス》も恐《お》ッかねど、波もおっかねしな」
昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い海霧《ガス》が一面に――然《しか》しそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの覆《おお》いの裾《すそ》がバタバタとデッキをたたいた。
「兎が飛ぶどオ――兎が!」誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
もう海一面、三角波の頂きが白いしぶき[#「しぶき」に傍点]を飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上っているようだった。――それがカムサツカの「突風」の前ブレ[#「前ブレ」に傍点]だった。にわかに底潮の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今まで右舷に見えていたカムサツカが、分らないうちに左舷になっていた。――船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に周章《あわ》て出した。
すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま、空を仰いだ。すぐ下にいるせいか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、湯桶《ゆおけ》のような煙突が、ユキユキと揺れていた。その煙突の腹の独逸《ドイツ》帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。――遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化《しけ》をおかして帰って来るのだった。
薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた。斜め上から、船の動揺の度に、チラチラ薄い光の束が洩《も》れていた。興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた。
「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ。
「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。
監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところに碇《とま》っていた××丸から「突風」の警戒報を受取っていた。それには若《も》し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加えていた。その時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザワザ来て仕事なんか出来るかい」――そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。
それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた。「人間の命を何んだって思ってやがるんだ!」
「人間の命?」
「そうよ」
「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」
何か云おうとした漁夫は吃《ども》ってしまった。彼は真赤になった。そして皆のところへかけ込んできたのだった。
皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた。父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。ステイが絶え間なしに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギリと切り苛《さ》いなまれた。
夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。下にいた者達はタラップの段を二つ置き位にかけ上った。――川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互にロープを渡して結び合っていた。
それは間近に来ていた。然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大きなうねりがもり上って、ローリングした。目の前にいて、中々近付かない。――歯がゆかった。甲板からはロープが投げられた。が、とどかなかった。それは無駄なしぶきを散らして、海へ落ちた。そしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度もくり返された。こっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫達の顔の表情はマスクのように化石して、動か
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