…
学生上りは、「ウム、そうか!」と云った。その話にひきつけられていた。――然し暗い気持がして、海に眼をそらした。海はまだ大うねりにうねり返っていた。水平線が見る間に足の下になるかと、思うと、二、三分もしないうちに、谷から狭《せ》ばめられた空を仰ぐように、下へ引きずりこまれていた。
「本当に沈没したかな」独言《ひとりごと》が出る。気になって仕方がなかった。――同じように、ボロ船に乗っている自分達のことが頭にくる。
――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路[#「血路」に傍点]を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマ[#「マンマ」に傍点]と何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。
蟹工船は「工船」(工場[#「工場」に傍点]船)であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。二十年の間も繋《つな》ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロヨロ[#「ヨロヨロ」に傍点]な「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧《こいげしょう》をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。――少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹いた。露国の監視船に追われて、スピードをかけると、(そんな時は何度もあった)船のどの部分もメリメリ鳴って、今にもその一つ、一つがバラバラに解《ほ》ぐれそうだった。中風患者のように身体をふるわした。
然し、それでも全くかまわない。何故《なぜ》なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上るべき「秋《とき》」だったから。――それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場法の適用もうけていない。それで、これ位都合のいい、勝手に出来るところはなかった。
利口な重役はこの仕事を「日本帝国のため」と結びつけてしまった。嘘《うそ》のような金が、そしてゴッソリ重役の懐《ふところ》に入ってくる。彼は然しそれをモット確実なものにするために「代議士」に出馬することを、自動車をドライヴしながら考えている。――が、恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千|哩《マイル》も離れた北の暗い海で、割れた硝子屑《ガラスくず》のように鋭い波と風に向って、死の戦いを戦っているのだ!
……学生上りは「糞壺《くそつぼ》」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。
「他人事《ひとごと》ではないぞ」
「糞壺」の梯子《はしご》を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、
[#ここから6字下げ、罫囲み]
雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし。
浅川監督。
[#ここで字下げ終わり]
と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、貼《は》らさってあった。
三
霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目|鰻《うなぎ》のように延びて見えた。
沖合四|浬《かいり》のところに、博光丸が錨《いかり》を下ろした。――三浬までロシアの領海なので、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」。
網さばき[#「さばき」に傍点]が終って、何時《いつ》からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。カムサツカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股《また》までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入って、ゴロ寝をした。
周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんな筈《はず》がなかった、とブツブツ云っていた。
「独《ひと》り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」
「ちげえねえ、独り寝さ。ゴロ寝だもの」
学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団《ふとん》、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。それが始めて分ったとき、貨幣《かね》だと思って握っていたのが、枯葉であったより、もっと彼等はキョトンとしてしまった。――始め、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた亡者のように、漁夫の中に一かたまりに固《かたま》っていた。
函館《はこだて》を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のために、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった。寝床に入ってから、膝《ひざ》を立てて、お互に脛《すね》を指で押していた。何度も繰りか
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