、雨に会うのより、もっと不気味だった。
 麻のロープが鉄管でも握るように、バリ、バリに凍えている。学生上りが、すべる足下に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々を一つ置きに片足で跳躍して上ってきた給仕に会った。
「チョッと」給仕が風の当らない角に引張って行った。「面白いことがあるんだよ」と云って話してきかせた。
 ――今朝の二時頃だった。ボート・デッキの上まで波が躍り上って、間を置いて、バジャバジャ、ザアッとそれが滝のように流れていた。夜の闇《やみ》の中で、波が歯をムキ出すのが、時々青白く光ってみえた。時化のために皆寝ずにいた。その時だった。
 船長室に無電係が周章《あわ》ててかけ込んできた。
「船長、大変です。S・O・Sです!」
「S・O・S? ――何船だ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「秩父丸です。本船と並んで進んでいたんです」
「ボロ船だ、それア!」――浅川が雨合羽《あまがっぱ》を着たまま、隅《すみ》の方の椅子に大きく股《また》を開いて、腰をかけていた。片方の靴の先だけを、小馬鹿にしたように、カタカタ動かしながら、笑った。「もっとも、どの船だって、ボロ船だがな」
「一刻と云えないようです」
「うん、それア大変だ」
 船長は、舵機室に上るために、急いで、身仕度《みじたく》もせずにドアーを開けようとした。然し、まだ開けないうちだった。いきなり、浅川が船長の右肩をつかんだ。
「余計な寄道せって、誰が命令したんだ」
 誰が命令した?「船長」ではないか。――が、突嗟《とっさ》のことで、船長は棒杭《ぼうぐい》より、もっとキョトンとした。然し、すぐ彼は自分の立場を取り戻した。
「船長としてだ」
「船長としてだア――ア※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」船長の前に立ちはだかった監督が、尻上りの侮辱した調子で抑《おさ》えつけた。「おい、一体これア誰の船だんだ。会社が傭船《チアタア》してるんだで、金を払って。もの[#「もの」に傍点]を云えるのア会社代表の須田さんとこの俺だ。お前なんぞ、船長と云ってりゃ大きな顔してるが、糞場の紙位えの価値《ねうち》もねえんだど。分ってるか。――あんなものにかかわってみろ、一週間もフイ[#「フイ」に傍点]になるんだ。冗談じゃない。一日でも遅れてみろ! それに秩父丸には勿体《もったい》ない程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだら、かえって得するんだ」
 給仕は「今[#「今」に傍点]」恐ろしい喧嘩が! と思った。それが、それだけで済む筈がない。だが(!)船長は咽喉《のど》へ綿でもつめられたように、立ちすくんでいるではないか。給仕はこんな場合の船長をかつて一度だって見たことがなかった。船長の云ったことが通らない? 馬鹿、そんな事が! だが、それが起っている。――給仕にはどうしても分らなかった。
「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲がとれるか!」唇を思いッ切りゆがめて唾《つば》をはいた。
 無電室では受信機が時々小さい、青白い火花《スパアクル》を出して、しきりなしになっていた。とにかく経過を見るために、皆は無電室に行った。
「ね、こんなに打っているんです。――だんだん早くなりますね」
 係は自分の肩越しに覗《のぞ》き込んでいる船長や監督に説明した。――皆は色々な器械のスウィッチやボタンの上を、係の指先があち、こち器用にすべるのを、それに縫いつけられたように眼で追いながら、思わず肩と顎根《あごね》に力をこめて、じいとしていた。
 船の動揺の度に、腫物《はれもの》のように壁に取付けてある電燈が、明るくなったり暗くなったりした。横腹に思いッ切り打ち当る波の音や、絶えずならしている不吉な警笛が、風の工合で遠くなったり、すぐ頭の上に近くなったり、鉄の扉《とびら》を隔てて聞えていた。
 ジイ――、ジイ――イと、長く尾を引いて、スパアクルが散った。と、そこで、ピタリと音がとまってしまった。それが、その瞬間、皆の胸へドキリときた。係は周章《あわ》てて、スウィッチをひねったり、機械をせわしく動かしたりした。が、それッ切りだった。もう打って来ない。
 係は身体をひねって、廻転椅子をぐるりとまわした。
「沈没です!……」
 頭から受信器を外《はず》しながら、そして低い声で云った。「乗務員四百二十五人。最後なり。救助される見込なし。S・O・S、S・O・S、これが二、三度続いて、それで切れてしまいました」
 それを聞くと、船長は頸とカラアの間に手をつッこんで、息苦しそうに頭をゆすって、頸をのばすようにした。無意味な視線で、落着きなく四囲《あたり》を見廻わしてから、ドアーの方へ身体を向けてしまった。そして、ネクタイの結び目あたりを抑えた。――その船長は見ていられなかった。
 …………………
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