キョトンと口を半開きにしているものもいた。誰も、何も考えていなかった。漠然とした不安な自覚が、皆を不機嫌にだまらせていた。
 顔を仰向けにして、グイとウイスキーをラッパ飲みにしている。赤黄く濁った、にぶい電燈のなかでチラッと瓶《びん》の角が光ってみえた。――ガラ、ガラッと、ウイスキーの空瓶が二、三カ所に稲妻形に打ち当って、棚から通路に力一杯に投げ出された。皆は頭だけをその方に向けて、眼で瓶を追った。――隅の方で誰か怒った声を出した。時化にとぎれて、それが片言のように聞えた。
「日本を離れるんだど」円窓を肱《ひじ》で拭《ぬぐ》っている。
「糞壺」のストーヴはブスブス燻《くすぶ》ってばかりいた。鮭や鱒と間違われて、「冷蔵庫」へ投げ込まれたように、その中で「生きている」人間はガタガタ顫《ふる》えていた。ズックで覆《おお》ったハッチの上をザア、ザアと波が大股《おおまた》に乗り越して行った。それが、その度に太鼓の内部みたいな「糞壺」の鉄壁に、物凄《ものすご》い反響を起した。時々漁夫の寝ているすぐ横が、グイと男の強い肩でつかれたように、ドシンとくる。――今では、船は、断末魔の鯨が、荒狂う波濤《はとう》の間に身体をのたうっている、そのままだった。
「飯だ!」賄《まかない》がドアーから身体の上半分をつき出して、口で両手を囲んで叫んだ。「時化てるから汁なし」
「何んだって?」
「腐れ塩引!」顔をひっこめた。
 思い、思い身体を起した。飯を食うことには、皆は囚人のような執念さを持っていた。ガツガツだった。
 塩引の皿を安坐をかいた股の間に置いて、湯気をふきながら、バラバラした熱い飯を頬ばると、舌の上でせわしく、あちこちへやった。「初めて」熱いものを鼻先にもってきたために、水洟《みずばな》がしきりなしに下がって、ひょいと飯の中に落ちそうになった。
 飯を食っていると、監督が入ってきた。
「いけホイドして[#「いけホイドして」に傍点]、ガツガツまくらうな。仕事もろく[#「ろく」に傍点]に出来ない日に、飯ば鱈腹《たらふく》食われてたまるもんか」
 ジロジロ棚の上下を見ながら、左肩だけを前の方へ揺《ゆす》って出て行った。
「一体あいつ[#「あいつ」に傍点]にあんなことを云う権利があるのか」――船酔と過労で、ゲッソリやせた学生上りが、ブツブツ云った。
「浅川ッたら蟹工の浅か、浅の蟹工かッてな」
「天皇陛下は雲の上にいるから、俺達にャどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそうは行かないからな」
 別な方から、
「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯! なぐってしまえ!」唇を尖《と》んがらした声だった。
「偉い偉い。そいつを浅の前で云えれば、なお偉い!」
 皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまった。
 夜、余程過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた。船の動揺を棚の枠《わく》につかまって支《ささ》えながら、一々漁夫の間にカンテラを差しつけて歩いた。南瓜《かぼちゃ》のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直して、カンテラで照らしてみていた。フンづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照し終ると、一寸立ち止まって舌打ちをした。――どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次の賄部屋の方へ歩き出した。末広な、青ッぽいカンテラの光が揺れる度に、ゴミゴミした棚の一部や、脛《すね》の長い防水ゴム靴や、支柱に懸けてあるドザや袢天《はんてん》、それに行李《こうり》などの一部分がチラ、チラッと光って、消えた。――足元に光が顫《ふる》えながら一瞬間|溜《た》まる、と今度は賄のドアーに幻燈のような円るい光の輪を写した。――次の朝になって、雑夫の一人が行衛《ゆくえ》不明になったことが知れた。
 皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじゃ、波に浚《さら》われたんだ」と思った。イヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互に話すことが出来なかった。
「こったら冷《しゃ》ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって! 隠れてやがるんだ。見付けたら、畜生、タタきのめしてやるから!」
 監督は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩いた。
 時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた。一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か跛《びっこ》な音をたてて進んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切って吹きとんで行った。小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもりもりと波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこんで
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