んだ。宗谷海峡に入った時は、三千|噸《トン》に近いこの船が、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]にでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬間宙に浮かぶ。――が、ぐウ[#「ぐウ」に傍点]と元の位置に沈む。エレヴエターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度《たび》に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。
波のしぶきで曇った円るい舷窓《げんそう》から、ひょいひょいと樺太《からふと》の、雪のある山並の堅い線が見えた。然《しか》しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと打ち当り、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺《ゆす》った。棚からもの[#「もの」に傍点]が落ちる音や、ギ――イと何かたわむ[#「たわむ」に傍点]音や、波に横ッ腹がドブ――ンと打ち当る音がした。――その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接《じか》に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿《つりざお》のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザアーと滝になった。
見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具《おもちゃ》の船程に、ちょこんと横にのッかることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんでゆく。今にも、沈む! が、谷底にはすぐ別な波がむくむくと起《た》ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当りをする。
オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹きつのってきた。それは硝子《ガラス》の細かいカケラのように甲板に這《は》いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに滑《すべ》った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめ[#「おしめ」に傍点]のようにブラ下り、作業をしなければならなかった。――監督は鮭殺しの棍棒《こんぼう》をもって、大声で怒鳴り散らした。
同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者《できししゃ》が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶《ふか》のように、白い歯をむいてくる波にもぎ[#「もぎ」に傍点]取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭《か》けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一|艘《ぱい》取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語[#「日本語」に傍点]でハッキリそういった。
カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子《しし》のように、えどなみかかってきた。船はまるで兎《うさぎ》より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきた。しかし時化《しけ》は止みそうもなかった。
仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆は蚕のように、各※[#二の字点、1−2−22]の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に食いついている虻《あぶ》を追払う馬のように、身体をヤケ[#「ヤケ」に傍点]に振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に煤《すす》けた天井にやったり、殆《ほと》んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には、呆《ほお》けたように
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