持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大《おんたい》、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄《おりかばん》」がいた。
「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」――給仕はふくれかえっていた。
漁夫の「穴」に、浜なす[#「浜なす」に傍点]のような電気がついた。煙草の煙や人いきれ[#「いきれ」に傍点]で、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺《くそつぼ》」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている人間が、蛆虫《うじむし》のようにうごめいて見えた。――漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭《ひげ》を気にして、始終ハンカチで上唇を撫《な》でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈《たかじょう》、鞋《わらじ》、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止った泥溝《どぶ》だった。監督はじろり[#「じろり」に傍点]それを見ながら、無遠慮に唾をはいた。――どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。
「一寸《ちょっと》云って置く」監督が土方の棒頭《ぼうがしら》のように頑丈《がんじょう》な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子《ようじ》で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。
「分ってるものもあるだろうが、云うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲仕事《もうけしごと》と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々が――我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若《も》し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈《はず》がないが、負けるようなことがあったら、睾丸《きんたま》をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。
「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭《さけ》、鱒《ます》と共に、国際的に云ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今|流行《はや》りの露助の真似《まね》をして、飛んでもないことをケシ[#「ケシ」に傍点]かけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」
監督は酔いざめのくさめ[#「くさめ」に傍点]を何度もした。
酔払った駆逐艦の御大[#「御大」に傍点]はバネ仕掛の人形のようなギクシャクした足取りで、待たしてあるランチに乗るために、タラップを下りて行った。水兵が上と下から、カントン袋に入れた石ころみたいな艦長を抱えて、殆んど持てあましてしまった。手を振ったり、足をふんばったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵は何度も真正面《まとも》から自分の顔に「唾」を吹きかけられた。
「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云ってこの態《ざま》なんだ」
艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で云った。
「やっちまうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]……」
二人は一寸息をのんだ、が……声を合せて笑い出した。
二
祝津《しゅくつ》の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧《ガス》の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫《こうぼう》を何|海浬《かいり》もサッと引いた。
留萌《るもい》の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏《はさみ》のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐《ふところ》の中につッこんだり、口のあたりを両手で円《ま》るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。――納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内《わっかない》に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。――風がマストに当ると不吉に鳴った。鋲《びょう》がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきし[#「きし」に傍点]
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