エんだ。」
 それで渡はもう一度×を失つた。
 渡は××に來る度に、かういふものを「お×はりさん」と云つて、町では人達の、「安寧」と「幸福」と「正義」を守つて下さる偉い人のやうに思はれてゐることを考へて、何時でも苦笑した。ブルジヨワ的教育法の根本は――方法論は「錯覺法」だつた。内と外をうまくすりかえて普及させる事には、つく/″\感心させる程、上手でもあつたし、手ぬかりもなかつた。
「おい、いゝか、いくらお前が××が免疫に[#「免疫に」は底本では「免疾に」]なつたつて、東京からは若し何んならブツ××たつていゝツて云つてきてゐるんだ。」
「それアいゝ事をきいた、さうか。――××れたつていゝよ。それで無産階級の運動が無くなるとでも云ふんなら、俺も考へるが、どうして/\後から後からと。その點ぢや、さら/\心殘りなんか無いんだから。」
 次に渡は×にされて、爪先と床の間が二三寸位離れる程度に××××××た。
「おい、いゝ加減にどうだ。」
 下から柔道三段の(以下二十六字削除」
「加減もんでたまるかい。」
「馬鹿だなア。今度のは新式だぞ。」
「何んでもいゝ。」
「ウフン。」
 渡は、だが、今度のには×××た。それは(以下二十四字削除)                彼は強烈な電氣に觸れたやうに、(以下六十六字削除)                                                 、大聲で叫んだ。
「××、××――え、××――え※[#感嘆符二つ、1−8−75]]」
 それは竹刀、平手、鐵棒、細引でなぐられるよりひどく堪えた。
 渡は、××されてゐる時にこそ、始めて理窟拔きの「憎い――ツ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」といふ資本家に對する火のやうな反抗が起つた。××こそ、無産階級が資本家から受けてゐる壓迫、搾取の形そのまゝの現はれである、と思つた。
 ××××毎に、渡の身體は跳ね上つた。
「えツ、何んだつて神經なんてありやがるんだ。」
 渡は齒を食ひしばつたまゝ、ガクリと自分の頭が前へ折れたことを、××の何處かで××したと思つた。――
「覺えてろ!」それが終ひの言葉だつた。渡は三度×んだ。
 ×を三度目に××返した。渡は自分の身體が紙ツ片のやうに不安定になつて居り、そして意識の上に一枚皮が張つたやうにボンヤリ[#「ボンヤリ」は底本では「ポンヤリ」]してゐるのを感じた。さうなれば、然しもう「どうとも勝手」だつた。意識がさういふ風に變調を來してくれば、それは××に對しては魔醉劑のやうな効果を持つからだつた。
 主任が警察で作つた×××の系圖を出して、「もう、こんなになつてるんだ。」と云つて、彼の表情を讀もふとした。
「ホウ、偉いもんだ。成る程――。」醉拂つたやうに云つた。
「おい、さう感心して貰つても困るんだ。」
 係はもう殆んど手を燒きつくしてゐた。
 終ひに、皆は滅茶苦茶に×××たり、下に金の打つてある靴で蹴つたりした。それを一時間も續け樣に續けた。渡の身體は芋俵のやうに好き勝手に轉がされた。彼の××「××」××××。そして時×××××××××が終つて、渡は監房の中へ豚の臟物のやうに放りこまれた。彼は次の朝まで、そのまゝ動けずにうなつてゐた。

 續けて工藤が取調べられた。
 工藤は割合に素直な調子で取調べに應じた。さういふ事では空元氣を出さなかつた。色々その場、その場で方法を伸縮さして、うまく適應するやうに自分をコントロールしてゆくことが出來た。
 工藤に對する××は大體渡に對するのと同じだつた。たゞ、彼がいきなり飛び上つたのは、彼を素足のまゝ立たして置いて、(以下七行削除)彼は終ひにへな/\に坐り込んでしまつた。
 それが終ると、兩手の掌を上に向けて、テーブルの上に置かせ、力一杯×××××××××××。それからよくやる、指に××を×××××××。――これ等を續け樣にやると、その代り/″\にくる強烈な刺戟で神經が極度の疲勞におち入つて、一時的な「痴呆状態」(!)になつてしまう。彈が[#「彈が」はママ]もどつて、ものにたえ性がなく、うかつな「どうでもいゝ」氣持になつてしまふ。そこをつかまへて、××は都合のいゝ××をさせるのだつた。
 そのすぐ後で取調べられた鈴本の場合なども、同じ手だつた。彼は或る意味で云へば、もつと××××をうけた。彼はなぐられも、蹴られもしなかつたが、たゞ八回も(八回も!)×××に×××××××事だつた。初めから終りまで××醫が(!)(以下四行削除)八回目には鈴本はすつかり醉拂ひ切つた人のやうにフラ、フラになつてゐた。彼は自分の頭があるのか、無いのかしびれ切つて分らなかつた。たゞ主任も特高も××係の巡査も、室も器具も、表現派のやうに解體したり、構成されて映つた。さういふ朦朧とした意識のまゝ、丁度大人に[#「大人に」は底本では「大人の」]肩をフンづかまれて、ゆすぶられる子供のやうに、取調べを進められた。鈴本は、これは危いぞ、と思つた。が、自分が一つ一つの取調べにどう答へてゐるか、自分で分らなかつた。

 佐多が入れられた留置場には色々なことで引張られてきてゐる四五人がゐた。それは留置場の一番端しの並びにあつて、取調室がすこし離れてその斜め前にあつた。
 彼は警察につれて來られたとき、自分達は偉大な歴史的使命を眞に勇敢にやろうとしてゐたゝめに、かうされるのだ、と繰り返し、繰り返し思つて、自分に納得を與へやうとした。然し彼の氣持はそれとはまるつきり逆に心から參つてしまつてゐた。そして留置場に入つたとき、彼は自分の一生が取返しがつかなく暗くなつた、と思つた。崖の方へ突進してゆく自動車を、もうどうにも運轉出來ず、アツと思つて、手で顏を覆ふ、その瞬間に似た氣持を感じた。その殆んど絶對的な氣持の前には、彼が今迄讀んだレーニンもマルクスも無かつた。「取りかへしがつかない、取りかへしがつかない。」それだけが昆布卷きのやうに、彼の全部を幾重にも包んでしまつた。
 それに、この塵芥《ごみ》箱の中そのまゝの留置場は、彼のその絶望的な氣持を二乘にも、三乘にも暗くした。室は晝も晩も、それにけぢめなく始終薄暗く、何處かジメ/\して、雜巾切れのやうな疊が中央に二枚敷かつてゐた。が、それを引き起したら、その下から蛆や蟲や腐つてムレたゴミなどがウジヨ/\出る感じだつた。空氣が動かずムンとして便所臭い匂が[#「匂が」は底本では「匂か」]してゐた。吸へば滓でも殘りさうな、胸のむかつく、腐つた溝水のやうな空氣だつた。
 彼は銀行に勤めてゐる關係上、何時も裏からではあつたが、眞に革命的な理論をつかんで、皆と同じやうに實踐に參加してゐたが、その色々な環境と[#「環境と」は底本では「還境と」]生活からくる膚合ひから云つて、低い生活水準にゐる勞働者とはやつぱりちがはざるを得なかつた。普段はそれが分らずにゐた。勿論彼さへ務めてゐれば、それからくる事はちつとも運動の邪魔にならなかつた。――留置場の空氣が、二日も經たないうちに、その上品な彼の身體にグツとこたえてきた。彼は時々胸が惡くなつて、ゲエ、ゲエといつた。然し吐くのでもなかつた。自家《うち》にゐれば、毎朝行くことになつてゐる便所にも行かなくなつた。粗食と運動不足がすぐ身體に變調を來たさした。四日目の朝、無理に便所に立つた。然し三十分もふんばつてゐて、カラ/\に乾いた鼠の尻尾《しつぽ》程の糞が二切れほどしか出なかつた。
 留置場の中では、彼は一人ぽつんと島のやうに離れてゐた。彼には、どうしても、彼等がかういふ處に入つてゐて自由に、氣樂に(さう見えた。)お互が色々なことを話し合つたりする事が分らなかつた。佐多は然し、ぢつとしてゐる事がすぐ苦しくなり出した。今度は彼は立ち上ると、室の中を無意味に歩き出した。が、ひよいと板壁に寄りかゝると、そのまゝ何時迄も考へこんでしまつた。自分よりはきつともつと悲しんでゐるだらう母を思つた。母の云つた「小ぢんまりとした、幸福な生活」を自分が踏みにじつた、そしてこれからの長い生涯、自分は監獄と苦鬪! その間を如何に休みなく、つんのめされ、フラ/\になり、暗く暮らして行かなければならないか、彼にはその一生がアリ/\と見える氣がした。要らない「おせつかい」を俺はしてしまつた、とさへ思つた。そして彼は水を一杯に含んだ海綿のやうに、心から感傷的に溺れてゐた。
 三十年間「コソ泥」をしてきたといふ眼の鋭い六十に近い男が、
「可哀相に、お前さんのやうな人の來る處ぢやないのに。」と彼に云つた。
 思はず、その言葉に彼は胸がふツとあつくなり、危く泣かされる處だつた。彼はしかもさういふ氣持を押えるのではなしに、かへつて、こつちからメソ/\と溺れ、甘えかゝつて行く處さへあつた。さうでなければ、たまらなかつた。
 初めての――しかも突然にきた、彼には強過ぎる刺戟に少し慣れてくると、佐多はその考から少しづゝ拔け出てくる事が出來るやうになつた。少しの犧牲もなくて、自分達の運動[#「自分達の運動」に傍点]が出來る筈がなかつた。自分ではちつとも何もせず、一足飛びに直ぐ、(キツト他の誰かゞしてくれた)××の成就してしまつた世界のことだけを考へて、興奮してゐる者にはかういふ經驗こそ、いゝいましめだ。――そこ迄佐多は自分で考へ得れる餘裕を取りもどしてゐた。彼は憂鬱になつたり、快活になつたりした。恐ろしく長い、しかも何もする事なく、たつた一室の中にだけゐなければならない彼には、その事より他に考へることが無かつた。
 夜、十二時を過ぎてゐた頃かも知れなかつた。佐多は隣りに寢てゐた「不良少年」に身體をゆすられて起された。
「ホラ……ホラ聞えないか?」暗がりで、變にひそめた聲が、彼のすぐ横でした。
 佐多は始め何のことか分らなかつた。
「ぢつとしてれ。」
 二人は息をしばらくとめた。全身が耳だけになつた。深夜らしくジイン、ジーン、ジーンと耳のなる音がする。佐多はだん/\睡氣から離れてきた。
「聞えるだらう。」
 遠くで劍術をやつてゐるやうな竹刀の音(たしかに竹刀の音だつた。)が彼の耳に入つてきた。それだけでなしに、そしてその合間に何か肉聲らしい音も交つてきこえた。それは然しはつきり分らなかつた。
「ホラ、ホラ…‥ホラ、なあ。」その音が高まる度に、不良少年がさう注意した。
「何んだらう。」佐多も聲をひそめて、彼にきいた。
「××さ。」
「…………?」いきなり咽喉へ鐵棒が入つたと思つた。
「もつとよく聞いてみれ。いゝか、ホラ、ホラ、あれア×××××奴のしぼり上げる××。なあ。」
 佐多には、それが何んと云つてゐるか分らなかつたが、一度きいたら、心にそのまゝ泌み込んで、きつと一生忘れる事が出來ないやうな××××××だつた。彼はぢいと、それに耳をすましてゐるうちに、夜無氣味な半鐘の音をきゝながら、火事を見てゐる時のやうに、身體が顫はさつてきた。「齒の根」がどうしても合はなかつた。彼は知らない間に片手でぎつしり敷布團の端を握つてゐた。
「分る、分るよ! な、×せ――え、×せ――えツて、云つてるらしい。」
「××――えツて?」
「ん、よく聞いてみれ。」
「なア、なア。」
「………………」
 佐多は耳を兩手で覆ふと、汗くさいベト、ベトした布團に顏を伏せてしまつた。彼の耳は、そして又彼の腦膸の奧は、然しその叫聲をまだ聞いてゐた。しばらくして、それが止んだ。取調室の戸が開いたのが聞えてきた。二人は小さい窓に顏をよせて廊下を見た。片方が引きづられてゐる亂れた足音がして、二人が前の方へやつてくるのが見えた。薄暗い電燈では、それが誰か分らなかつた。うん、うん、うんといふ聲と、それを抑へる低い、が強い息聲が靜まりかへつてゐる廊下にきこえた。彼等の前を通るとき、巡査の聲で、
「お前は少し強情だ。」
 さう云ふのが聞えた。
 佐多はその夜、どうしても眠れず、ズキ、ズキ痛む頭で起きてしまつた。
 彼は「××」それを考へると、考へたゞけで背の肉がケイレンを起すやうに痛んだ。膝がひとりでにがくつい[#「がくつい」に傍点]て、
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