#「内隱し」に傍点]から、くしや/\にもまれて折れさうになつてゐたバツトを一本出して、齋藤に渡してくれた。
「有難え、有難え。もう一席もツと微細なところをやるかな。」
 こすい[#「こすい」に傍点]眼付きで、相手をちらつと見て笑つた[#「笑つた」は底本では「笑つつた」]。齋藤はそれを掌の上で丹念に直して、それからそれに唾を塗つて成るべく遲くまで殘るやうに濡した。
「いや、忽體ない。これは後でゆつくりとやる。」そして耳に煙草をはさんだ。
「――早く何んとかしてくれないかな。」
 片隅で誰か獨言した。
 皆はその言葉でひよいと又、自分の心に懷中電燈でもつきつけられたやうに思つた。
「濱の現場から引つぱられて來たんで、家でどツたらに心配してるかツて思つてよ。俺働かねば嬶も餓鬼も食つていけねえんだ。」
「俺らもよ。」
「……こんな運動こり/″\[#「/″\」は底本では「/\」]した。おツかねえ。」――變に實感をこめて、さう云つたのは相當前から組合にゐる勞働者だつた。
「どうしてよ!」齋藤が口を入れた。
 齋藤に云はれて、その勞働者は口をつむんでしまつた。齋藤は怒つた調子を明ら樣に出して「うん?」と、うながした。
「いゝ/\。」石田が巡査の方を眼くばせして、齋藤の後を突ツついた。
 その木村といふ勞働者は長く組合にゐたが、表立つては別に何もしてきてゐなかつた。彼は何時でも云つてゐた。――それは、あまり彼の出てゐる倉庫の仕事が苦しかつた。ところが勞働組合がさういふ勞働者の待遇を直してくれるためにある、といふ事を知つた。それで彼が入つてきたのだつた。が、警察に引張られなければならないやうではとても彼は困ると思つたし、それにそんな「惡い事[#「惡い事」に傍点]」まですることは、どうしても彼には分らなかつた。恐ろしいとも思つた。そんな事でなしに、うまくやつて行くのが勞働組合だと思つてゐた。彼は思ひ違ひをしてゐた。彼はこれでは、何時かやめなければならない、と考へた。彼は結局後から押されるやうにして、今迄知らず/\の間に押されてきてゐた。何かものにつまずけば、すぐそれが動機になつて、軌道から外へ轉げ落ちる形のまゝだつた。彼は組合の仕事もちつとも積極的でなしに、人形のやうに、割り當てられたことだけしかしなかつた。
 總選擧の時だつた。敵候補方のポスターを剥ぎとつたといふ事で、勞農黨から誰か警察に犧牲になつて行く必要が起きた。渡が木村に頼んで、色々注意を話してきかせた。
「少しなぐられるかも知らないけれども、我慢してくれよ。」と云つた。
「嫌だ!」
 一口でさう云ひ切つた。
 そんな答をちつとも豫期してゐなかつた渡が「えゝ?」と反射的に云つたきり、かへつて默つたまゝ木村の顏を見た。[#「見た。」は底本では「見た」]
「俺アそつたら事して、一日でも二日でも警察さ引ツ張られてみれ、飯食えなくなるよ。嫌だ!」
「君は俺達の運動といふ事が分らないんだな。」
「お前え達幹部みたいに、警察さ引ツ張られて行けば、それだけ名前が出て偉くなつたり、名譽になつたりすんのと違んだ。」
 渡は息をグツとのんだまゝ、すぐ何か云へず、默つた。そこにゐた龍吉は「これア惡い空氣だ。」と思つた。組合の幹部と平組合員が「こんな事で」にらみ合つてゐては困る、と思つた。
「今のところ、まア別人に行つて貰ふことにしてもいゝさ。」
 龍吉は是非さう云はなければならなかつた。――この木村にとつて、今度の事は、だから、「手をひく」いゝ動機だつた。こゝから出たら、さつぱりとやめやうと思つてゐた。さう決めてゐた。
「意久地のない野郎だ。」
 齋藤はズウと前にあつた、その木村のことを思ひ出してゐた。彼はワザと横を向いた。
「木村君、やつぱり組合員は組合員らしくするんだなア。殊にかういふ事になれば、俺達がしつかりしなけア困る時だ、と思ふんだ。」
 龍吉はストーヴの温さで、かゆくなつた前股のあたりをさすりながら云つた。木村は然し默つてゐた。龍吉はフト文字通り戰鬪的だと云はれてゐる左翼組合に、案外かういふもの等が數の上でゝも中樞をなしてゐることは、さう輕々しく考へ捨てることの出來ない事だと思つた。
 木村の紹介で、最近組合に入つた柴田は兩膝をかゝえて、皆を見てゐた。彼は木村と同じ蒲團に寢るので、彼が心底からぐしやん[#「ぐしやん」に傍点]と參つてゐることを聞かされて知つてゐた。柴田自身も、然し、初め參つたとは思つた。殊に組合で寢こみを襲はれた時血の氣がなくなつた。然し勿論こんなことは堪え切つて行かなければならない事だと、普段から思つてゐた。自分で、さういふ點では殊に至らないつまらないものであると思つてゐたから、彼は人一倍一生懸命になつた。[#「。」は底本では「、」]彼はだから、渡や工藤や龍吉さういふ人達の一擧一動にか細い[#「か細い」はママ]注意を拂つて自分の態度に、意識的に過ぎるとさへ思はれる程鞭を加へてきてゐた。今度の事件は、そして、色々な人間に對する嚴重なフルイであつた。ドシ/\眼の前で網の目から落ちて行く同志を見るのは、可なり淋しいことだつた。然しそれは或ひはかへつて必要な過程であるかも知れなかつた。――柴田は、俺はいくら後から來た若造だつて、畜生、落ちてはなるまいぞ、と思つた。
 ストーヴの廻りの話がこの事で一寸渦を卷いて澱んだ。が、誰が話し出すとなく、女の話が又出た。
 八時になると、疊の方へ床を敷いて、二人づゝ[#「づゝ」は底本では「づゞ」]寢た。「眠れさへすれば」眠るのが、たつた一つの自由な樂しみだつた。
 何人もが一緒に帶を解いたり、足袋を脱いだりする音がゴソ/\起つた。
「早く寢て夢を見るんだ。」口に出して云ふものがゐる。
「留置場の夢か。たまらない。」
「糞。」
 相手がクス/\笑つた。宿屋に着いた修學旅行の生徒のやうに、一しきりザワめいた。巡査が時々「シツ」「シツ」と云つた。
 何十人かのあか[#「あか」に傍点]のついた鯣のやうな夜具の襟が、ひんやりと氣持わるく頬に觸つた。
「あ――あ、極樂だ。」襟で口を抑へられたボソ/\した聲だつた。
「地獄の極樂。」
 か飛んでも[#「か飛んでも」はママ]なく離れた方から、「い――い夢見たい。」
「寢ろ/\。」
「女でも抱いたつもりでか。」
「こんな處で、それを云ふ奴があるか。」
「あゝ抱きたい。」
「馬鹿だな、誰だい。」
「何が馬鹿だ……。」
「寢ろ/\。」
 そんな言葉が時々間を置いて、思ひ/\にあつち、こつちから起つた。それがだん/\緩く、途切れ勝ちになつて行つた。二十分もすると、思ひ出したやうに、寢言らしい言葉が出る位になつてしまつた。――そして靜かになつた。
 演武場の外は、淋しい暗がりの多い通りだつた。それであまり人通りは無かつたが、時々下駄が寒氣《しばれ》のひどい雪道をギユン/\ならして通つて行くのが、今度は耳についてきた。署内で、誰かゞ遠くで呼んでゐる聲が、それがそれより馬鹿に遠くからといふ風に聞えた。
「眠れるか。」
 龍吉は眠れないので、一緒に寢てゐる齋藤にそつと言葉をかけてみた。齋藤は動かなかつた。眠つてゐた。[#「ゐた。」は底本では「ゐた」]もう眠つたのかと思ふと、それが如何にも齋藤らしかつたので、彼は獨りで微笑ましくなつた。龍吉はズキン、ズキンと底から(さうひどくはなかつたが)痛んでくる胃を、片手で揉むやうに押しながら、色々なことを考へてゐた。……
「オイ/\。」――誰だ、と思つた。今こんな面倒な頁を讀んでゐるのにと思ふと、ムラ/\ツと癪にさわつた。「オイオイ。」ぐいと肩をつかまれた。糞ツ! 振りかへらふとして、龍吉は眼をさました。非常に眠かつた。その瞬間、ダブつた寫眞のやうに、夢と現實の境ひをつけるのに、彼はしばらく眼をみはつた。さうだ、すぐ眼の前に汚い、鬚だらけの大きな巡査の顏があつた。
「オイ/\、起きるんだ[#「起きるんだ」は底本では「起きるんた」]。取調べだ。」
 ギヨツとすると、龍吉は自分でも分らずに、身體を半分起してゐた。
 寢ぼけた處を引張つて行く何時もの彼等の手だつた。ガヂヤ/\と、靜かな四圍に不吉な鍵の音をさして、巡査のあとから龍吉はついて出た。
 三十分程した。凄い程すつかり顏色のなくなつた工藤が巡査に連れられて歸つてきた。が、演武場に置いておいた荷物を※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、26−21]めると、すぐ巡査にうながされて出て行つた。彼はその時、何か云はふとするやうに皆の寢てゐる所を見廻はした。が、身體を廻はすと、ズングリな後を見せて出て行つた。――がちやん[#「がちやん」に傍点]と鍵が下りた。二人の、歩調の合つてゐない足音が廊下に何時までも聞えてゐた。
 寢がへりを打つ音や、嘆息や、發音の分らない寢言などが、泥沼に出るメタン瓦斯のやうにブツ/\起つた。

         八

 警察署は、一週間のうちに勞働運動者、勞働者、關係のインテリゲンチヤを二百人も、無茶苦茶に、豚のやうにかりたてた。[#「。」は底本では「、」]差入れにきた全然運動とは無關係の弟を、そのまゝ引きづり込んで「×××××」一週間も歸さなかつた。[#「歸さなかつた。」は底本では「歸さなかつた」]だが、こんな事はエピソ−ドの百分の一にも過ぎない。

 取調べが始つた。
 渡に對しては、この×××××がなくても、警察では是が「非でも」やツつけなければならない、と思つてゐた。合法的な[#「合法的な」に傍点]黨、組合の運動に楔のやうに無理にねぢこんで、渡を引ツこ拔かうとした。普段から、してゐた。さういふ中を彼は、然し文字通りまるで豹のやうに飛びまはつてゐた。そこをつかまえたのだから「この野郎、半×しにしてやれる」と喜んだ。
 渡は、一言も取調べに對しては口を開かなかつた。「どうぞ、勝手に。」と云つた。
「どういふ意味だ。」司法主任と特高がだん/\アワを食ひ出した。
「どういふ意味でゝも。」
「××するぞ。」
「仕方がないよ。」
「天野屋氣取りをして、後で青くなるな。」
「貴方達も案外眼がきかないんだな。俺が××されたら云ふとか、半×しにされたからどうとか、そんな條件付きの男かどうか位は、もう分つてゐてもよささうだよ。」
 彼等は「本氣」にアワを食つてきた。「渡なら」と思ふと、さうでありさうで内心困つたことだと思つた。何故か? 彼等が若し、この×××の「元兇」から一言も「聞取書」が取れないとなると、(が、何しろ元兇だから一寸×せはしないが、)逆に、自分達の「生首」の方が危なかつた。――何より、それだつた。
 渡は×にされると、いきなりものも云はないで、後から(以下十行削除)手と足を硬直さして、空へのばした。ブル/\つとけいれん[#「けいれん」に傍点]した。そして、次に彼は××失つてゐた。
 然し渡は長い間の××の經驗から、丁度氣合術師が平氣で腕に針を通したり、燒火箸をつかんだりするそれと同じことを會得した。だから、××だ! その緊張――それが知らず知らずの間に知つた氣合だかも知れない――がくると、割合にそれが×えられた。
 こゝでは、石川五右衞門や天野屋利兵衞の、×××××××は××××××××では決してなかつた。それは××××××××。然し勿論かういふことはある――刑法百三十五條「被告人に對しては丁寧親切を旨とし、其利益となるべき事實を陳述する機會を與ふべし。」(※[#感嘆符二つ、1−8−75]])
 水をかけると、××ふきかへした。今度は誘ひ出すやうな戰法でやつてきた。
「いくら××したつて、貴方達の腹が減る位だよ。――斷然何も云はないから。」
「皆もうこツちでは分つてるんだ。云へばそれだけ輕くなるんだぜ。」
「分つてれば、それでいゝよ。俺の罪まで心配してもらはなくたつて。」
「渡君、困るなあ、それぢや。」
「俺の方もさ。――俺ア××には免疫なんだから。」
 後に三四人××係(!)が立つてゐた。
「この野郎!」一人が渡の後から腕をまはしてよこして、×を××かゝつた。「この野郎一人ゐる爲めに、小樽がうるさくて仕方がね
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