云つてよかつた。それに彼はがんばり[#「がんばり」に傍点]の意志を持つてゐた。裏も表もなくムキ出しにされてゐた彼の、その「がんばり」はある時には大黒柱のやうに頼りにされたが、別な場合には他の組合員の狂犬のやうな反感をムラ/\ツとひき起すこともなくはなかつた。
彼は前へすぐ下る髮を、頭を振つて、うるさげに拂ひあげながら、一人ゐる留置場を歩き廻つた。彼の長くない、太い足は柔道をやる人のやうに外に曲がつてゐた。それで彼の上體はかへつて土臺のしつかりしたものに乘つてゐるといふ感じを與へた。彼は一歩々々踵に力を入れて、ゆつくり歩く癖があつた。彼の靴は一番先きに、踵の外側だけが、癖の惡い人に使はれた墨のやうに斜めに減つた。彼は歩きながら同志の者たちはどうしてゐるだらふ、と思つた。[#「思つた。」は底本では「思つた」]誰かかういふ彈壓に恐怖を抱くものがあつては、その事が一番彼の考へを占めた。若しも長びくやうだつたら、それがもつと工合惡くなる、彼はそれに對する策略を考へてみた。
壁には爪や、鉛筆のやうなもので、色々な樂書がしてあつた。退屈になると、渡は丹念にそれを拾ひ、拾ひ讀んだ。[#「讀んだ。」は底本では「讀んだ」]何處にも書かれる男と女の生殖器が大きく二つも三つもあつた。
「俺は泥棒ですよ、ハイ。」「こゝの××は劍難死亡の相あり――骨相家。」「×事、×事、×事、×、×。(これが未來派のやうな字體で。)「不良青年とは、もつとも人生を眞劍に渡る人のことでなくして何んぞや。呵々」「社會主義者よ。何んとかしてくれ。」「お前が社會主義になれ。」男と女の生殖器を向ひ合せて書いてある下に「人生の悲喜劇は一本[#「一本」に丸傍点]に始つて、一本に終るか。嗚呼[#「嗚呼」は底本では「鳴呼」]。」「私は飯が食えないんです。」「署長よ。お身の令孃には有名な蟲が喰ツついてゐる。」「何んでえ、こつたら處。誰がおつかながるものか。」「勞働者よ、強くなれ。」「こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。樂書はみつともないから止しにしやう。」「糞でも喰らえ。」「不當にも自由を束縛されたものにとつて、樂書は唯だ一つののび/\[#「のび/\」に傍点]と解放された樂天地だ。こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。大いに樂書をしたまへ。」「勞働者がこの頃生意氣になりました。」「この野郎、もう一度云つてみろ、たゝき殺してやるぞ。勞働者。」「巡査さん、山田町の吉田キヨといふ人妻は、男を三人持つてゐて、サツク持參で一日置きに廻つて歩いてるさうだ。探査を望む」「お前もその一人か。」「妻と子あり、飢えてゐる。俺はこの社會を憎む。」「ウン、大いに憎め。」「働け。」「働け? 働いて樂になる世の中だか考へてかう云へ、馬鹿野郎。」「社會主義××。」……
渡は何時でも入つてくる度に、何か書いてゆくことにしてゐた。今迄に、さう決めてからは、何度もやつてゐた。
「俺はとう/\巡査の厄介になつたよ。悲しい男。」「巡査の嬶で、生活苦のために一回三圓で淫賣をしてゐるものが小樽に八人ゐる。穴知り生。」
渡はさう書かれてゐる次の空いてゐる壁に、爪で深く傷をつけながら丹念に樂書を始めた。熱中すると知らないうちに餘程の時間を消すことが出來た。それは畫でも描いてゐるやうな氣持で出來る愉快な仕事だつた。成るべく長く書かうと思つた。彼は肩先きに力を入れて仕事にとりかゝつた。熱中したときの癖で、何時の間にか彼は舌を横に出して、一生懸命一字々々刻んで行つた。
おい、皆聞け!(以下三十三行削除)
かなり長い時間それにかゝつた。渡は讀み返へしてみて滿足を感じた。口笛を吹きながら、コールテンのズボンに手をつツこんで、離れてみたり、近寄つてみたりした。
夜が明けてゐた。電燈が消えると然し、眼が慣れない間、室の中が急に暗くなつた。壁の樂書も見えなくなつた。青白い、明け方の光が窓の四角に區切られて、下の方へ三、四十度の角度で入つてきてゐた。渡は急に大きく放屁した。それから歩きながらも、力を入れて、何度も續けて放屁した。屁はいくらでも出た。そしてそれが自分でも嫌になるほど、しつこく臭かつた。「えツ糞、えツ糞!」渡はその度に片足を一寸浮かして放屁した。
八時頃かも知れなかつた。入口の鍵がガチヤ/\鳴つた。戸が開いて、腰に劍を吊してゐない巡査が指先の分れてゐる靴下に草履を引つかけて入つてきた。
「出るんだ。」
「動物園の獸ぢやないよ。」
「馬鹿。」
「歸してくれるのかい、有難いなア。」
「取調だよ。」
さう云つたが、急に「臭い臭い!」と 廊下に「#「 廊下に」はママ]飛び出てしまつた。
七
その日のうちに、又五、六人の勞働者が連れられて來た。室が狹くなると、皆は演武場の廣場に移された。室の半分は疊で、半分は板敷だつた。室の三方が殆んど全部硝子窓なので、明るい外光が、薄暗い處から出てきた皆の眼を初めはまばゆくさせた。中央には大きなストーヴが据えつけられてゐた。お互に顏を見知つてゐるものも多かつたので、ストーヴを圍むと、色々な話が出た。監視の巡査は四人程ついた。巡査も股を廣げて、ストーヴに寄つた。
日暮れになると皆表に出された。裏口から一列に並んで外へ出ると、警察構内を半廻りして、表口から又入れられた。「盥廻し」をされてしまつたのだつた。急に皆の顏が不安になつた。どや/\と演武場に入つてくると、お互に顏を寄せて、どうしたんだと云ひ合つた。今度の檢束が何か別な原因からだ。といふ直感が皆にきた。實の入つてゐない鹽ツ辛い汁で、粘氣がなくてボロ/\した眞黒い麥飯を食つてしまつてから、皆はまたストーヴに寄つた。が、ちつとも話がはづんで行かなかつた。
八時過ぎに、工藤が呼ばれて出て行つた。皆はギヨツとして、工藤の後姿を見送つた。
夜が更けてくると、ブス/\煙ぶつてゐるやうな安石炭のストーヴでは室は温くならなかつた。背の方からゾク/\と寒さが滲みこんできた。龍吉は丹前を持ち出しに、薄暗い隅の方へ行つた。あとから石田がついてきた。
「小川さん、俺こんな事皆の前で云つてえゝか分らないので、默つてゐたんだけど。」と低い聲で云つた。
龍吉は胃が又痛み出してきたのを、眉のあたりに力を入れて、我慢しながら、
「うん?」と、きゝかへした。
演武場の外を、誰かゞ足音をカリツ、カリツとさせて歩いてゐた。
――少し前だつた。石田が洗面所に行つた。別々の室に入れられてゐる皆が、お互に顏だけでも見合はされ、――又運よく行つて、話でも出來るのは、實は一つしかないために共同に使はれてゐた洗面所だつた。皆が其處へ行くときは、それでその機會をうまくつかめるやうに、心で望んでゐた。石田が入つてゆくと、正面の板壁[#「板壁」は底本では「坂壁」]に下げてある横に長い鏡の前で、こつちへは後を向けた肩巾の廣い、厚い男が顏を洗つてゐた。その時は、石田は何かうつかり外のことを考へてゐたかも知れなかつた。その男の側まで行つて、彼は――と、その時ひよいと、その男が顏をあげた。石田が何氣なく投げてゐた視線と、それがかつちり合つた。「あツ!」石田はたしかに聲をあげた。頭から足へ、何か目にもとまらない速さで、スウツと走つた。彼は、自分の身體が紙ツ片のやうに輕くなつたのを感じた。彼は片手を洗面所の枠に支へると、反射的に片手で自分の相から[#「相から」はママ]頬をなでた。顏?――それが×だらふか? ××××××××××××××××××、文字通り「××」××、そして、それが渡ではないか!
「×××××。」自分で自分の顏を指すやうな恰好で、笑つてみせた。笑顏!
石田は一言も云へず、そのまゝでゐた。心臟の下あたりがくすぐつたくなるやうに、ふるえてきた。
「然し、ちつとも參らない。」
「うん……」
「皆に恐怖病にとツつかれないやうにつて頼むでえ。」
その時は、それだけしか云へる機會がなかつた。
「キツト何かあつたんだと思ふんだ。」石田が怒つたやうに、低い聲で云つた。
「うむ。…‥心當りがないでもないが。然し、大切なことは矢張り恐怖病だ。」龍吉はストーブの廻りにゐる仲間や巡査の方に眼をやりながら云つた。
「それアさうだ。然し警察へ來てまで空元氣を出して、亂暴を働かなけア鬪士でないなんて考へも、やめさせなけア駄目だ。警察に來ておとなしくしてゐるといふのは何も恐怖病にとツつかれてゐるといふ事ではないんだと思ふ。」
「さうだ、うん。」
「齋藤なんぞ。」さう云つて、ストーヴのそばで何か手振りをしながらしやべつてゐる齋藤を見ながら、「此前だ、警察へ引つぱられてきて、一番罪が輕かつたら、それを恥かしく思つて首でも吊らなかつたら、そんな奴は無産階級の鬪士でないなんて云ひ出したもんだ!」
「……うん、いや、その氣持も運動をしてゐるものがキツト幾分はもつ……何んて云ふか、センチメンタリズムだよ。同志に濟まないつて氣がするもんだからな、そんな場合、然し、勿論それア機會ある毎に直して行かなけアならない事だよ。」
石田は相手を見て、何か言葉をはさもうとした、然しやめると、考へる顏をした。
「それは然し、案外面倒な方法だと思ふんだ。そいつをあまり眞正面から小兒病だとか、なんとか云ひ出すと、處が肝心要めの情熱そのものを根つからブツつり引つこ拔いてしまふ事にならないとも限らないからなあ。勿論それア、その二つのものは別物だけどさ[#「だけどさ」は底本では「たけどさ」]。」
石田は自分の爪先きを見ながら、その邊を歩き出した。
「大切なことはその情熱をそのまゝ正しい道の方へ流し込んでやるツて事らしいよ。――情熱は何んと云つたつて、矢張り一番大きな、根本的なものだと思ふんだ。」龍吉は何かを考へて、フト言葉を切つた。「××的理論なくして、××的行動はあり得ないツて言葉があるさ、君も知つてる有名な奴さ。けれども、それはそれだけぢや本當は足りないと、俺は思つてるんだ。その言葉の底に當然のものとして省略されてる大物は、何んと云つたつて情熱だよ。」
「線香花火の情熱はあやまるよ。牛が、何がなんであらうと、然し決してやめる事なく、のそり/\歩いてゆく。それが殊に俺達の執拗な長い間の努力の要る運動に必要な情熱ぢやないか、と思ふんだ。」
「さうだ。情熱は然し、人によつて色々異つた形で出るものだよ。俺たちの運動は二三人の氣の合つた仲間ばかりで出來るものぢやないのだから、その點、大きな氣持――それ等をグツと引きしめる一段と高い氣持に、それを結びつけることによつて、それ等の差異をなるべく溶合するやうに氣をつけなければならないと思ふんだ。――それア、どうしたつて個人的に云つて不愉快なこともあるさ。だが勿論そんなことに拘はるのは嘘だよ。俺だつて渡のある方面では嫌なところがある。渡ばかりぢやない。然し、決してそれで分離することはしないよ。それぢや組織體としての俺達の運動は出來ないんだから。」
「うん、うん。」
「これから色々困難なことに打ち當るさ。さうすればキツトこんな事で、案外重大な裂目を引き起さないとも限らないんだ。俺たちはもつと/\、かういふ隱れてゐる、何んでもないやうな事に本氣で、氣をつけて行かなければならないと思つてるよ。」
「うん、うん。」石田は口のなかで何邊もうなづいた。
二人がストーヴに寄つてゆくと、皆は巡査と一緒に猥談をやつてゐた。どういふわけで引張られてきたかちつとも分らないと云つてゐた勞働者は二三人ゐた。それ等は初めからオド/\して、側から見てゐられない程くしやん[#「くしやん」に傍点]としてゐた。が、時々その猥談に口をはさんだり、笑つてゐた。話がとぎれて、一寸皆がだまる事があると、走り雲の落してゆく影のやうに、彼等の顏が瞬間暗くなつた。
齋藤が手振で話してゐたのは、女の××のことだつた。それが口達者なので、皆を引きつけてゐた。話し終ると、
「ねえ、石山さん、煙草一本。」
一生懸命に聞いてゐた頭の毛の薄い、肥つた巡査に手を出した。
石山巡査は、下品にえへ、えへゝゝゝと笑ひながら、上着の内隱し[
前へ
次へ
全10ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング