は、紙を見て、一人々々名前を呼んで、その者だけを廊下に出るやうに云つた。ブツ/\云ひながら、呼ばれた者は小さい潜り戸を、蹲みながら出て行つた。あとに六人殘つた。
倒れた齋藤が横になつたまゝ、身體を尺取蟲のやうにして起き上らうとしてゐた處を、先の巡査は靴のまゝ、續けて二度蹴つた。
しばらくして、又別な巡査が入つてきて、中にゐる六人に一人づゝ付添つて、話も出來ないやうにして[#「して」は底本では「しで」]しまつた。
龍吉は高く取り付けてある小さい窓の下に坐つた。汚く濁つた電燈の光が、皆の輪廓をぼかして、動いてゐるのは影だけでゞもあるやうな雰圍氣だつた。それが五分經ち――十分經つて行くうちに、初め黄色ツぽい光だつた電燈がへんに薄れて行くやうで――一帶が青白くなり、そしてだん/\に、室の中が深い海底でゞもあるやうな色に變つてゆくのが分つた。何處か一部分だけがズキ/\する頭で、龍吉は夜が明けかゝつてゐるのだな、と思つた。
構内は靜かになつた。凍え切つた靜かさだつた。時々廊下を小走りにゆくコツ/\といふ靴音がした。足音が止んで扉を開ける、それが氷でも碎ける音のやうに聞えた。ドタ/\と足音か亂れて、誰か腕をとられながら、何か云ひ爭ふやうにして前を通つて行つた。それが終ると、もとの夜明らしい何處か變態的な靜けさにかへつた。誰か、やつぱり短い生あくびをして、表を通り過ぎて行つた。
「寢むてえ。寢せてけないのか。」
ボソ/\した調子で、片隅からさう云ふのが聞えた。
「もう夜明けだ。夜が明けるよ。」
巡査も寢不足の、はれぼつたい、ぼんやりした顏をしてゐた。
龍吉は板壁に身體を寄りかゝらせて、眼をつぶつてゐた。身體も神經も妙に疲れきつてゐた。ぢつと、さうしてゐると、船にでも乘つてゐるやうに、自分の身體が靜かに巾大きく、搖れてゐるやうに感じた。彼は檢束された時、何時でもさうする癖をつけてゐたやうに、取りとめのないことの空想や、想像や、思ひ出やに疲れてくると、一度讀んだ事のある重要な本の復習や、そこから出てくる問題を頭の中で理論的に筋道をつけて考へることに決めてゐた。又組合や黨などで論爭された自分の考などについて、もう一度始めから清算してみることにしてゐた。それを始めた。
龍吉は、この前の研究會の時、マルクスの價値説とオーストリア學派の限界効用説に就いて起つた議論を、自分が考へ、又讀んだことのある本の中から材料を探がしてきて、もう一度考へ直さうと思つてゐた……。
彼はすつかりアワを食つてゐた。ズボンをはきながら、のめつたり、よろめいたり、自分ながらさういふ自分に不快になるのを感じさへした。然し、彼は襖一重隣の室で自分を待つてゐる巡査の、カチヤ/\するサアベルの音が幸子の耳に聞える、今にも聞える、さう思つて、ハラ/\してゐた。彼はその音が幸子に聞えれば、幸子の「心」にひゞが入ることを知つてゐた。
「お父さんはねえ、學校の人と一緒に旅行へ行くんだよ。」
幸子が黒い大きな眼をパツチリ、つぶらに開いて、彼を見上げる。
「おみやに何もつてきて?」
彼はグツとこたえた。が「うん/\、いゝものどつさり。」
と、幸子が襖の方へ、くるりと頭を向けた。彼はいきなり兩手で自分の頭を押へた。ピーン、陶器の割れるその音を、彼はたしかにきいた。彼は、アツと、内にこもつた叫聲をあげて、かけ寄ると、急いで幸子の[#「幸子の」は底本では「禮子の」]懷を開けてみた。乾萄葡をつけたやうな二つの乳首の間に、陶器の皿のやうな心がついてゐる――見ると、髮の毛のやうなヒビが、そこに入つてゐるではないか!
あつ、あつ、あつ、あつ…‥龍吉は續け樣にむせたやうな叫び聲をあげた……。
眼を開けると、室の中はけぶつたやうな青白い夜明けの光が、はつきり入つてゐた。皆は疲勞してゐるやうな恰好で、大きな頭を胸にうづめたり、身體を半分横にしたり、ぼんやり洞ろな眼差しを板壁に向けてゐたりしてゐた。龍吉は輕くゴツン/\と板壁に自分の頭を打ちつけてみた。頭の左側の一部分が、やはり、そこだけズキ、ズキしてゐた。彼は今うつゝに見た夢が、無氣味な實感の餘韻を何時迄も心に殘してゐることを感じた。
然し、龍吉は今では自分でもさうと分る程、かういふ處にたゝき込まれた時のオキマリの感傷的な絶望感から逃れ得てゐた。それは誰れでもが囚はれる――そして、それは或る場合、當人を事實全く氣狂ひのやうにしてしまうかも知れない――堪え難い、ハケ口のない陰鬱な壓迫だつた。このためにだけでも、何人もこの運動から身を引いて行つた人のあることを龍吉は見て來てゐた。龍吉だつても、勿論そこを危い綱渡りのやうに通つてきた。そして一回、一回不當な××な××を受ければ、受けるその度毎に、今迄に彼のうちに多分に殘されてゐた抹梢神經がドシ/\すり減らされて行つた。ムシ齒に這ひ出てゐる神經のやうに、一寸したことにでもピリ/\くる彼の(輕蔑の意味でのデリケートな)心がだん/\鋼鐵のやうに鍛えられてゆくのを感じた。それは然し龍吉にとつては文字通り「連續した××」の生活だつた。龍吉のやうに「インテリゲンチヤ」の過去を持つたものが、この運動に眞實に、頭からではなしに、「身體をもつて」入り込もうとする時、それは然し當然の過程として課せられなければならない「訓練」であつた。そしてそれは又、單純な道ではあり得なかつた。――髮の毛をひツつかんで引きずり廻はされるやうな、ジグザツクな、しかも胸突八丁だつた。
――龍吉は妙に、心にしみこんでくる幸子のことを頭から拂ひ落さうとするやうに、大きくあくびをした。片隅で齋藤が餘程長く延びてゐる髮を、やけに兩手の指を熊手のやうにして逆にかき上げた。
交代の時間が來て、一人に一人づゝ付いてゐた巡査が出て行つた。時々龍吉の家にくるので知つてゐる須田巡査が出て行きしなに彼へ、
「ねえ、小川君、實際こんなことがあるとたまらないよ。――非番も何もあつたもんでない。身體が參るよ。」――さう云つたのに、變な實感があつた。
彼は、人をふんだり、蹴つたりする巡査らしくない親しみを感じ、ひよつとすると、それが彼の素地であるかも知れないものを其處に見た氣がして、意外に思つた。
「實際、ご苦勞さんだ。」
皮肉でなく、さう云つてやつた。
齋藤は「ご苦勞――を。」と、ブツ切ら棒に捨科白のやうに巡査の後に投げつけた。
外の巡査が皆出てしまうと、須田巡査が、
「何か自家《うち》にことづけ[#「ことづけ」に傍点]が無いか」とひくゝ訊いた。
龍吉は一寸何も云へずに、思はず須田の顏を見た。
「いゝや、別に――有難う……。」
須田は頭でうなづいて出て行つた。少し前こゞみな官服の圓い肩が、妙に貧相に見えた。
「あ――あ、煙草飮みたいなア。」誰かゞ獨言のやうに云つた。
「もう、夜が明けるぞ……」
六
龍吉と一緒の室にゐた齋藤が便所に行く途中、廊下の突き當りの留置場の前で、
「おい。」――と、その留置場にゐる誰かに呼ばれた、と思つた。
齋藤は足をとゞめた。
「おい。」――聲が渡だつた。小さい窓へ、内から顏をあてゝゐるのが、さう云へば渡だつた。
「渡か、俺だ。――何んだ、獨りか?」
「獨りだ。皆元氣か。」何時もの、高くない底のある聲だつた。
「元氣だ。――うむ、獨りか。」獨り、といふのが齋藤の胸に來た。
少し遲れて附いてきた巡査が寄つてきたので、
「元氣で居れ。」と云つて、歩き出した。
歩きながら、何故か、これは危いぞ、と思つた。室に歸つてから、齋藤はその事を龍吉に云つた。龍吉はだまつたまゝ、それが何時もの癖である下唇をかんだ。
石田は、渡とは便所で會つた。言葉を交はすことは出來なかつたが、がつしり落付いた、鋼のやうに固い、しつかりした彼の何時もの表情を見た。
「おい、バンクロフトつて知つてるか。」石田が齋藤にきいた。
「バンクロフト? 知らない。コンムユニストか?」
「活動役者だよ。」
「そんなぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]もの知るもんかい。」
石田は渡に會つたとき、ひよいと「暗黒街」といふ活動寫眞で見た、巨賊に扮した、バンクロフトを[#「バンクロフトを」は底本では「パルクロフトを」]思ひ出した。渡――バンクロフト[#「バンクロフト」は底本では「パンクロフト」]、それが不思議なほど、ピツタリ一緒に石田の頭に燒付いた。
渡は、自分が獨房に入れられたとき、(最初組合に踏込まれたときと同じやうに、)自分等が主になつてやつてゐる非合法的な運動が發覺した、と思つた。瞬間、やつぱり顏から血がスウと引けてゆくのが自分でも分つた。彼にとつては、然し、それはそれつきりの事だつた。すぐ何時ものに歸つてゐた。そして殊に獨房にどつかり坐つたとき、遠い旅行から久し振りで自家に歸つてきた人のやうな、廣々とつくろいだ氣持を覺えた。――渡でも誰でも、朝眼をぱつちり開ける。と待つてゐたとばかりに、運動が彼をひツつかんでしまふ。ビラを持つて走り廻る。工場の仲間や市内の支部を廻つて、報告を聞き、相談をし、指令を與へる。中央からのレポートがくる。それが一々その地の情勢に應じて色々の形で實行に移されなければならない。委員會が開かれる。石投げのやうな喧嘩腰の討論が續く。謄寫板。組合員の教育、演説會、――準備、ビラ、奔走、演説、檢束……彼等の身體は廻轉機にでも引つかゝつたやうに、引きずり廻はされる。それは一日の例外もなしに、打《ぶ》ツ續けに、何處迄行つても限りのない循環小數のやうに續く。――もう澤山だ! さう云ひたくなる位だ。そしてそのあらゆる間、絶え間なく彼等の心は、張り切り得る最高の限度に常に張り切つてゐなければならなかつた。然し「別莊」はその氣持に中休みを入れさせてくれる効果を持つてゐる。だから「別莊行き」には皮肉な意味を除けば、ブルジヨワの使ふ「休息」さういふ言葉通りの意味も含まつてゐた。然し誰もこの後の方の事を口には出して云はなかつた。そんな事を云へば、一言のもとに非戰鬪的だとされることを皆はこつそり知つてゐたからだ。
渡は、足を前に投げ出して、それを股から膝、脛、足首――それから次には逆に――揉んだり、首や肩を自分の掌でたゝいたり、深呼吸するやうに大きく、ゆつくりあくびをしたりした。ふと、渡は、自分は今迄ゆつくりあくびさへした事のなかつた事を思ひ出した。そして獨りで可笑しくなつて、笑ひ出した。
四、五日前から鈴本の歌つてゐたのを聞きながら、何時の間にか[#「間にか」は底本では「間にが」]覺えた、「夜でも晝でも牢屋は暗い。」の歌を小聲で樂しむやうに、一つ/\味ひながら、うたつて、小さい獨房の中を歩いてみた。渡の頭には何も殘つてゐない。さう云つてよかつた。然し時々今日全國的に開かれる反動内閣打倒演説が出來なくなつた事と、自分達の運動が一寸の間でも中斷される殘念さがジリ/\歸つてきた。が正直に云つて――又不思議に、渡には、それ等の事は眠りに落ちやうとする間際に、ひよい、ひよいと聯絡もなく、淡く浮かんだり[#「浮かんだり」は底本では「浮んかだり」]消えたりする無意味なものゝやうでしかなかつた。
渡は口笛を吹いて歩きながら、板壁を指でたゝいてみたり、さすつてみたりした。彼は實になごやかな氣持だつた。監獄に入れられて沈んだり憂鬱になつたりする。さういふ氣持はちつとも渡は知らなかつた。然しもつと重大な事は、自分達は正しい歴史的な使命を勇敢にやつてゐるからこそ、監獄にたゝき込まれるんだ、といふ事が渡の場合苦しい苦しいから跳ね返す、跳ね返さずにはゐられないその氣持と理窟なしに一致してゐた。彼は、自分の主義主張がコブのやうに自分の氣儘な行動をしばりつけてゐるやうな窮屈さや、それに對する絶えない良心の苛責などは嘗つて感じなかつた。渡は、自分ではちつとも、何も犧牲を拂つてゐるとは思つてゐないし、社會的正義のために俺はしてゐるんだぞ、とも思つてゐない。生のまゝの「憎い、憎い!」さう思ふ彼の感情から、少しの無理もなくやつてゐた。これは彼の底からの氣持と
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