]にうづまつた――ひげの中から顏が出てゐる、のを指差した。佐多は曖昧に[#「曖昧に」は底本では「曖眛に」]ふくみ笑つた。
「お前、別に何んでもないかい。」
何處から聞いてくるか、然しハツキリではなく、こんな云ひ方をすることもあつた。表紙の眞赤な本が殖えてきたのにも氣づいてゐた。勞農黨××支部、さういふ裏印を押した手紙がくると、母親は獨りで周章てゝ、自分の懷にしまひ込んだ。佐多が歸つてくると、何か祕密な恐ろしいものでゝもあるやうに、それを出して渡した。「お前、そのう、主義者《しぎしや》だか、なんだかになつたんでないだらうねえ。」
佐多は、母親がだん/\浮かないやうな顏をする日が多くなり、夜など朝まで寢がへりをうつて、寢られずにゐるのを知つた。佛壇の[#「佛壇の」は底本では「佛檀の」]前に坐つて、泣いてゐるのも、何度も見た。それが皆自分のことからである、とハツキリ思つた。特別な事情で育てられてきた佐多には、さういふ母を見ることは心臟に鶴嘴を打ち込まれる氣がした。龍吉やお惠は隨分佐多から、この事では相談されたことがあつた。
佐多が二階にゐると、時々母が上つてきた。その回數がだん/\多くなつてきた。母親はその度に同じことをボソ/\云つた。――お前一人がどうしやうが、どうにもなるものぢやない、若しもの事があり、食へなくなつたらだうする、お前は世間の人達の恐れてゐるやうなそんな事をする人間ではなかつた筈だ、キツト何んかに馮かれてゐるんだ、お母さんは毎日お前のために神樣や、死んだお父さんにお祈りしてゐる……。佐多はイライラしてくると、
「お母さんには分らないんだ。」と、半分泣きさうになつてゐる聲で、どなつた。
「それより、お母さんにはお前の心が分らないよ。」母は肩をすぼめて、弱々しく云つた[#「云つた」は底本では「行つた」]。
佐多は面倒になると、母を殘して二階をドン/\降りてしまつた。降りても然し、佐多の氣持はなごまなかつた。俺をこんなに意氣地なくするのは母だ、「母親なんて案外大きな俺たちの敵なのだ。」彼は興奮した心で考へた。
その後で、もう一度さういふ事があつた。佐多はムツとして立ち上ると、
「分つた、分つた、分つたよ! もういゝ、澤山だ!」いきなり叫んだ。「もうやめたよ。お母さんの云ふやうに、やめるよ。いゝんだらう。やめたらいゝんだらう。やめるよ、やめるよ! うるさい!」
彼は母をつツ飛ばすやうにして表へ出てしまつた。外へ出てしまうと、然し逆な氣持が起つてきた。
「お母さんには分らないんだ。」
佐多は十六日に、仲間から龍吉の方や組合に大檢擧のあつた事をきいた。然しその仲間も、それが何んのことでやられたのか見當がついてゐなかつた。佐多は家へ歸ると、色々な書類を※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、71−11]めて近所の家へ預け、整理してしまつた。その日は何んでもなかつた。彼はホツとする一方、組合へ出掛けて行つて、樣子を見てみやうと思つた。そこへ前の仲間が來て、組合や黨の事務所には私服が澤山入りこんでゐて危いことを知らせてくれた。そして組合にウツカリ來る者は、それが關係のあるものであらうと、無からうと引張つてゆく。組合の小林が十五日の午後、何氣なく組合に行くと、私服がドカ/\と出てきて、いきなり小林をつかまえた。小林はハツとして、突嗟に、俺は印刷屋の掛取りだ。掛を取りに來たんだ、と云つたら、今誰も居ないから駄目、駄目、と云つてつツ返へされてきた。彼は勿論その足で、組合員の家を廻つて、注意するやうに云つた。仲間はそんな事を話した。彼は行かないでよかつたと思つた。
然し檢束のために、警官がやつて來たのは、十七日の夜、佐多が夕刊を讀んでゐた處だつた。佐多はイザとなつたとき、自分でも案外な覺悟と落着きが出來てゐた。
彼は活動寫眞や古い芝居で、よく「腰をぬかす」滑稽な身振りを見て笑つた。然し! 彼が外套を取りに行つて二階から下りてきた時だつた。彼は室の片隅の方にぺつたりへたばつたまゝ、手と足だけをバタ/\やつてゐる母親を見たのだつた! 唇がワナ/\動いて、何か一生懸命ものを云はうとしてゐるらしく、然し何も云へず、サツと凄い程血の氣の無くなつた顏がこはゞつて、眼だけがグル/\動いてゐる。手と足は何かにつかまらうとしてゐるやうに振つてゐる。然し母親の身體はちつとも動かないではないか。佐多は障子を半分開きかけたそのまゝの恰好で、丸太棒のやうに立ちすくんでしまつた。
佐多は三人の警官に守られながら外へ出た。彼は道々母のことを考へ、警官に見られないやうに、獨りで長い間泣いてゐた。
お惠は工藤の家からの歸り、市の一番賑やかな花園町大通りを歩いてきた。まだ暮れたばかりの夜だつた。そんなに寒氣《しばれ》がきびしくなかつた。街には何時ものやうに、澤山の人が歩いてゐたし、鈴をつけた馬橇、自動車、乘合自動車はしきりなしに往つたり來たりしてゐた。明るい店のシヨウ・ウインドウに、新婚らしい二人連れが顏を近く寄せて、何か話してゐた。――温かさうなコートや角卷の女、厚い駱駝のオーヴアに身體をフカ/\と包んだ男、用達しの小僧、大きな空の辨當箱をさげたナツパ服、子供……それ等が皆、肩と肩とを擦り合せ、話し合ひ、急ぎ足であつたり、ブラ/\であつたり、歩いてゐる。お惠は不思議な氣持がしてくるのを覺えた。今、この同じ××の市であんなに大きな事件が起き上つてゐる。然し、それと此處は何んといふ無關係であらう。それでいゝのだらうか。あの何十人――何百人かの人達が、全く自分等の身體を投げてかゝつてゐる、誰れでものためでない、無産大衆のためにやつてゐるそのことが、こんなに無關係であつていゝと云ふのだらうか――お惠は分らなくなつた。こゝには、そのちよツぴりした餘波さへ來てゐない氣がした。政府が新聞に差止めしてゐるズルイ方法のためがあつたかも知れない。ずるい方法だ! 然しどの顏も、そのどの態度も皆明るく、滿足し、皆てんでの行先きに急いでゐるやうに思はれた。
夫達は誰のためにやつてゐるのだ。お惠は變に淋しい物足りなさを感じた。夫達がだまされてゐる! 馬鹿な、何を云ふ! 然し、暗い氣持は馬虻のやうに、しつこくお惠の身體にまつはつて離れなかつた。
[#地から5字上げ]―― 次號完結 ――
五
××日の夜明、警察署からは帽子の顎紐をかけた警官が何人も周章た樣子で、出たり入つたりしてゐた。それが何度も何度も繰返された。空色に車體を塗つた自動車も時々横付けにされた。自動車がバタ/\と機關の音をさせると警察のドアーが勢よく開いて、片手で劍をおさへた警官が走つて出てきた。自動車は一きわ高い爆音をあげて、そこから直ぐ下り坂になつてゐる處を、雪道の窪みにタイヤを落して、車體をゆすりながら、すべり下りて、直ぐ見えなくなつた。一寸すると戻つてきて、別な人を乘せると、又出た。
留置場は一杯になつてゐた。
先きに入られた者等は、扉の錠がガチヤ/\し出すと、今迄勝手にしやべり散らしてゐたのを、ぴたりやめて、其處だけに眼を注いで――待つた。入つてきたのが、渡、鈴本、齋藤、阪西達だと分ると思はず一緒に歡聲をあげた。警備に當つてゐる巡査が鷄冠のやうに赤くなつて、背のびをしながら怒鳴つたが、ちつとも効めがなかつた。一緒にされた十四五人は皆何時も顏を合せ、第一線に立つて鬪爭してきたものばかりだつた。
彼等は、それ/″\自分の相手に、興奮してこの不法行爲に就いて、大聲で議論をし合つた。そして彼等は、皆が一緒になつたといふ事から、それに恃んで[#「恃んで」は底本では「侍んで」]、無茶苦茶な亂暴をしたい衝動にかられた。
齋藤は、いきなり身體をマリのやうに縮めると、ものも云はずに、板壁に身體全部で打ち當つて行つた。唇をギユツとかんで、顏を眞赤にして力みながら、鬪牛のやうに首を少しまげて、それを繰り返した。
「チエツ!」
駄目だと[#「駄目だと」は底本では「駄日だと」]分ると、今度は馬のやうに後足で蹴り出した。皆も眞似をして、てんでに、板壁をたゝいたり、蹴つたりした。石田は(彼だけ)腕ぐみをして、時々獨言を漏らしながら、室の中央を歩いてゐた。
又扉が開いた。然し今度は鈴本と渡が呼び出されて行つた。「どうしたんだ。」――皆は頭株の二人がゐなくなると、變に氣拔けしてきた。そして壁をたゝくものが、一人やめ、二人やめ、だん/\やめてしまつた。
石田は、壁の隅ツこに兩足を投げ出したまゝ眼をつぶつてゐる龍吉に、氣付いた。彼は、小川さんも! と思ふと今度の事はとてつもなく大變な事である氣がした。と、同時に、その親しさから、何處か頼りある氣持になつた。
「小川さん。」石田は寄つて行つた。
龍吉は顏をあげた。
「今度のは何んです。」
「ウン、俺にも分らないんだよ。今、渡君にでも聞かうと思つてたんだ。」
「今日やる倒閣。」
「さうかとも思つてるんだ――が。さうなら今日一日でいゝわけだ――が……。」
皆が二人を取卷いてきた。何等理由もきかせず、犬の子か猫の子を處置するやうに、引張つてきて、ブチ込んだことに對して奮慨した。龍吉もそれはさうだつた。
「ねえ、法律にはかう決めてあるんだよ。日出前、日沒後に於ては、生命とか身體とか財産に對して、危害切迫せりと認むる時だ。又はさ、博奕、密淫賣の現行ありと認むる時でなかつたら、そこに住んでゐる人の意に反してだ――どうだ、いゝか――現居住者の意に反して、邸宅に入ることを得ず、ツてあるんだ。それを何んだ、夜中の寢込みを襲つて! それに理由も云はずに檢束するなんて! ××はこんな事をする處だよ。」
勞働者達は一心に聞いてゐた。そして、畜生、野郎、と叫んで、足ぶみをした。
龍吉は興奮してゐた。「所が、どうだ、憲法にはかうあるんだ、憲法にだぜ。――日本臣民は、だ、法律によるに非ずして逮捕、監禁、審問、處罰を受くることなし。俺達は、ところがどうだ。ちアんと正式の法律の手續をふんで、一度だつて、その逮捕、監禁、審問を受けたことがあつたとでも云ふのか。――このゴマカシと嘘八百!」
かう云はれて、皆は今の場合――現實に、その××な仕打のワナにかゝつて、身もだえをしてゐる場合、それ等のことがムシ齒の神經に直接に觸はられるやうに、全身にこたえて行つた。
「おい、そこの扉を皆でブチ割つて、理由を聞きに行かうぢやないか。」
「やらう!」他の者も興奮して、それに同意した。「ひでえ騷ぎ、たゝき起してやるべえ!」
「駄目、駄目。」龍吉が頭を振つた。
「どうしてだい?」齋藤は組合などでもよくする癖で、肩でつツかゝるやうに龍吉に向つて行つた。
「かう入つてしまへば、何をしたつて無駄さ。逆に、かへつてひでえ目に會ふが落さ。――萬事、俺達の運動は、外で[#「外で」に傍点]、大衆の支持[#「大衆の支持」に傍点]で! 五人、十人の偉さうな亂暴と狂燥は何んにもならないんだ。俺達が夢にでも忘れてはならない原則にもどるよ[#「もどるよ」はママ]。」
「そ、そんなことで、ぢつとしてられるか! それこそ偉さうな理窟だ、理窟だ!」
石田は側で、相變らずだなア、と思つた。巡査が四人入つてきた。
皆はギヨツとして、そのまゝの恰好に、ぢいツとしてゐた。顏一面ザラ/\したひげの、背の低い、がつしりした身體つきの巡査が、留置場の中をグル/\見廻はしてから、
「貴樣等、こゝは警察だ位のことは分つてるんだらうな。何んだこのやかましさは!」
一人々々の肩をグイ/\と押しのめした。齋藤の處へ來たとき、彼はひよいと肩を引いた。はづみを食らつて、巡査の手と身體が調子よく前にヨロ/\と泳いだ。と、巡査は「この野郎!」と無氣味な聲で云ふと、いきなり、齋藤の身體に自分の身體をすり寄せた。齋藤の身體は空に半圓を描いて、龍吉の横の羽目板に「ズスン」と鈍い音をたてて、投げつけられてゐた。
巡査はせわしく肩で息をして、少しかすれた聲で「皆、覺えておけ。少しでも騷いだりすると覺悟が要るんだぞ!」と云つた。
後から入つてきた巡査
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