。あとから石田がついてきた。
「小川さん、俺こんな事皆の前で云つてえゝか分らないので、默つてゐたんだけど。」と低い聲で云つた。
 龍吉は胃が又痛み出してきたのを、眉のあたりに力を入れて、我慢しながら、
「うん?」と、きゝかへした。
 演武場の外を、誰かゞ足音をカリツ、カリツとさせて歩いてゐた。
 ――少し前だつた。石田が洗面所に行つた。別々の室に入れられてゐる皆が、お互に顏だけでも見合はされ、――又運よく行つて、話でも出來るのは、實は一つしかないために共同に使はれてゐた洗面所だつた。皆が其處へ行くときは、それでその機會をうまくつかめるやうに、心で望んでゐた。石田が入つてゆくと、正面の板壁[#「板壁」は底本では「坂壁」]に下げてある横に長い鏡の前で、こつちへは後を向けた肩巾の廣い、厚い男が顏を洗つてゐた。その時は、石田は何かうつかり外のことを考へてゐたかも知れなかつた。その男の側まで行つて、彼は――と、その時ひよいと、その男が顏をあげた。石田が何氣なく投げてゐた視線と、それがかつちり合つた。「あツ!」石田はたしかに聲をあげた。頭から足へ、何か目にもとまらない速さで、スウツと走つた。彼は、
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