食と運動不足がすぐ身體に變調を來たさした。四日目の朝、無理に便所に立つた。然し三十分もふんばつてゐて、カラ/\に乾いた鼠の尻尾《しつぽ》程の糞が二切れほどしか出なかつた。
 留置場の中では、彼は一人ぽつんと島のやうに離れてゐた。彼には、どうしても、彼等がかういふ處に入つてゐて自由に、氣樂に(さう見えた。)お互が色々なことを話し合つたりする事が分らなかつた。佐多は然し、ぢつとしてゐる事がすぐ苦しくなり出した。今度は彼は立ち上ると、室の中を無意味に歩き出した。が、ひよいと板壁に寄りかゝると、そのまゝ何時迄も考へこんでしまつた。自分よりはきつともつと悲しんでゐるだらう母を思つた。母の云つた「小ぢんまりとした、幸福な生活」を自分が踏みにじつた、そしてこれからの長い生涯、自分は監獄と苦鬪! その間を如何に休みなく、つんのめされ、フラ/\になり、暗く暮らして行かなければならないか、彼にはその一生がアリ/\と見える氣がした。要らない「おせつかい」を俺はしてしまつた、とさへ思つた。そして彼は水を一杯に含んだ海綿のやうに、心から感傷的に溺れてゐた。
 三十年間「コソ泥」をしてきたといふ眼の鋭い六十に近い男が、
「可哀相に、お前さんのやうな人の來る處ぢやないのに。」と彼に云つた。
 思はず、その言葉に彼は胸がふツとあつくなり、危く泣かされる處だつた。彼はしかもさういふ氣持を押えるのではなしに、かへつて、こつちからメソ/\と溺れ、甘えかゝつて行く處さへあつた。さうでなければ、たまらなかつた。
 初めての――しかも突然にきた、彼には強過ぎる刺戟に少し慣れてくると、佐多はその考から少しづゝ拔け出てくる事が出來るやうになつた。少しの犧牲もなくて、自分達の運動[#「自分達の運動」に傍点]が出來る筈がなかつた。自分ではちつとも何もせず、一足飛びに直ぐ、(キツト他の誰かゞしてくれた)××の成就してしまつた世界のことだけを考へて、興奮してゐる者にはかういふ經驗こそ、いゝいましめだ。――そこ迄佐多は自分で考へ得れる餘裕を取りもどしてゐた。彼は憂鬱になつたり、快活になつたりした。恐ろしく長い、しかも何もする事なく、たつた一室の中にだけゐなければならない彼には、その事より他に考へることが無かつた。
 夜、十二時を過ぎてゐた頃かも知れなかつた。佐多は隣りに寢てゐた「不良少年」に身體をゆすられて起された。
「ホラ……ホラ聞えないか?」暗がりで、變にひそめた聲が、彼のすぐ横でした。
 佐多は始め何のことか分らなかつた。
「ぢつとしてれ。」
 二人は息をしばらくとめた。全身が耳だけになつた。深夜らしくジイン、ジーン、ジーンと耳のなる音がする。佐多はだん/\睡氣から離れてきた。
「聞えるだらう。」
 遠くで劍術をやつてゐるやうな竹刀の音(たしかに竹刀の音だつた。)が彼の耳に入つてきた。それだけでなしに、そしてその合間に何か肉聲らしい音も交つてきこえた。それは然しはつきり分らなかつた。
「ホラ、ホラ…‥ホラ、なあ。」その音が高まる度に、不良少年がさう注意した。
「何んだらう。」佐多も聲をひそめて、彼にきいた。
「××さ。」
「…………?」いきなり咽喉へ鐵棒が入つたと思つた。
「もつとよく聞いてみれ。いゝか、ホラ、ホラ、あれア×××××奴のしぼり上げる××。なあ。」
 佐多には、それが何んと云つてゐるか分らなかつたが、一度きいたら、心にそのまゝ泌み込んで、きつと一生忘れる事が出來ないやうな××××××だつた。彼はぢいと、それに耳をすましてゐるうちに、夜無氣味な半鐘の音をきゝながら、火事を見てゐる時のやうに、身體が顫はさつてきた。「齒の根」がどうしても合はなかつた。彼は知らない間に片手でぎつしり敷布團の端を握つてゐた。
「分る、分るよ! な、×せ――え、×せ――えツて、云つてるらしい。」
「××――えツて?」
「ん、よく聞いてみれ。」
「なア、なア。」
「………………」
 佐多は耳を兩手で覆ふと、汗くさいベト、ベトした布團に顏を伏せてしまつた。彼の耳は、そして又彼の腦膸の奧は、然しその叫聲をまだ聞いてゐた。しばらくして、それが止んだ。取調室の戸が開いたのが聞えてきた。二人は小さい窓に顏をよせて廊下を見た。片方が引きづられてゐる亂れた足音がして、二人が前の方へやつてくるのが見えた。薄暗い電燈では、それが誰か分らなかつた。うん、うん、うんといふ聲と、それを抑へる低い、が強い息聲が靜まりかへつてゐる廊下にきこえた。彼等の前を通るとき、巡査の聲で、
「お前は少し強情だ。」
 さう云ふのが聞えた。
 佐多はその夜、どうしても眠れず、ズキ、ズキ痛む頭で起きてしまつた。
 彼は「××」それを考へると、考へたゞけで背の肉がケイレンを起すやうに痛んだ。膝がひとりでにがくつい[#「がくつい」に傍点]て、
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