さい!」
彼は母をつツ飛ばすやうにして表へ出てしまつた。外へ出てしまうと、然し逆な氣持が起つてきた。
「お母さんには分らないんだ。」
佐多は十六日に、仲間から龍吉の方や組合に大檢擧のあつた事をきいた。然しその仲間も、それが何んのことでやられたのか見當がついてゐなかつた。佐多は家へ歸ると、色々な書類を※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、71−11]めて近所の家へ預け、整理してしまつた。その日は何んでもなかつた。彼はホツとする一方、組合へ出掛けて行つて、樣子を見てみやうと思つた。そこへ前の仲間が來て、組合や黨の事務所には私服が澤山入りこんでゐて危いことを知らせてくれた。そして組合にウツカリ來る者は、それが關係のあるものであらうと、無からうと引張つてゆく。組合の小林が十五日の午後、何氣なく組合に行くと、私服がドカ/\と出てきて、いきなり小林をつかまえた。小林はハツとして、突嗟に、俺は印刷屋の掛取りだ。掛を取りに來たんだ、と云つたら、今誰も居ないから駄目、駄目、と云つてつツ返へされてきた。彼は勿論その足で、組合員の家を廻つて、注意するやうに云つた。仲間はそんな事を話した。彼は行かないでよかつたと思つた。
然し檢束のために、警官がやつて來たのは、十七日の夜、佐多が夕刊を讀んでゐた處だつた。佐多はイザとなつたとき、自分でも案外な覺悟と落着きが出來てゐた。
彼は活動寫眞や古い芝居で、よく「腰をぬかす」滑稽な身振りを見て笑つた。然し! 彼が外套を取りに行つて二階から下りてきた時だつた。彼は室の片隅の方にぺつたりへたばつたまゝ、手と足だけをバタ/\やつてゐる母親を見たのだつた! 唇がワナ/\動いて、何か一生懸命ものを云はうとしてゐるらしく、然し何も云へず、サツと凄い程血の氣の無くなつた顏がこはゞつて、眼だけがグル/\動いてゐる。手と足は何かにつかまらうとしてゐるやうに振つてゐる。然し母親の身體はちつとも動かないではないか。佐多は障子を半分開きかけたそのまゝの恰好で、丸太棒のやうに立ちすくんでしまつた。
佐多は三人の警官に守られながら外へ出た。彼は道々母のことを考へ、警官に見られないやうに、獨りで長い間泣いてゐた。
お惠は工藤の家からの歸り、市の一番賑やかな花園町大通りを歩いてきた。まだ暮れたばかりの夜だつた。そんなに寒氣《しばれ》がきびしくなかつた。街には何時ものやうに、澤山の人が歩いてゐたし、鈴をつけた馬橇、自動車、乘合自動車はしきりなしに往つたり來たりしてゐた。明るい店のシヨウ・ウインドウに、新婚らしい二人連れが顏を近く寄せて、何か話してゐた。――温かさうなコートや角卷の女、厚い駱駝のオーヴアに身體をフカ/\と包んだ男、用達しの小僧、大きな空の辨當箱をさげたナツパ服、子供……それ等が皆、肩と肩とを擦り合せ、話し合ひ、急ぎ足であつたり、ブラ/\であつたり、歩いてゐる。お惠は不思議な氣持がしてくるのを覺えた。今、この同じ××の市であんなに大きな事件が起き上つてゐる。然し、それと此處は何んといふ無關係であらう。それでいゝのだらうか。あの何十人――何百人かの人達が、全く自分等の身體を投げてかゝつてゐる、誰れでものためでない、無産大衆のためにやつてゐるそのことが、こんなに無關係であつていゝと云ふのだらうか――お惠は分らなくなつた。こゝには、そのちよツぴりした餘波さへ來てゐない氣がした。政府が新聞に差止めしてゐるズルイ方法のためがあつたかも知れない。ずるい方法だ! 然しどの顏も、そのどの態度も皆明るく、滿足し、皆てんでの行先きに急いでゐるやうに思はれた。
夫達は誰のためにやつてゐるのだ。お惠は變に淋しい物足りなさを感じた。夫達がだまされてゐる! 馬鹿な、何を云ふ! 然し、暗い氣持は馬虻のやうに、しつこくお惠の身體にまつはつて離れなかつた。
[#地から5字上げ]―― 次號完結 ――
五
××日の夜明、警察署からは帽子の顎紐をかけた警官が何人も周章た樣子で、出たり入つたりしてゐた。それが何度も何度も繰返された。空色に車體を塗つた自動車も時々横付けにされた。自動車がバタ/\と機關の音をさせると警察のドアーが勢よく開いて、片手で劍をおさへた警官が走つて出てきた。自動車は一きわ高い爆音をあげて、そこから直ぐ下り坂になつてゐる處を、雪道の窪みにタイヤを落して、車體をゆすりながら、すべり下りて、直ぐ見えなくなつた。一寸すると戻つてきて、別な人を乘せると、又出た。
留置場は一杯になつてゐた。
先きに入られた者等は、扉の錠がガチヤ/\し出すと、今迄勝手にしやべり散らしてゐたのを、ぴたりやめて、其處だけに眼を注いで――待つた。入つてきたのが、渡、鈴本、齋藤、阪西達だと分ると思はず一緒に歡聲をあげた。警備に當つてゐる巡査が鷄冠の
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