ず多かれども(もイ無)書かず。これらを人の笑ふを聞きて、海は荒るれども心は少しなぎぬ。かくゆきくらして泊にいたりて、おきな人ひとり、たうめ一人あるがなかに、心ちあしみしてものも物し給はでひそまりぬ。
十日、けふはこの那波の泊にとまりぬ。
十一日、曉に船を出して室津をおふ。人皆まだねたれば海のありやう(二字さまイ)も見えず、唯月を見てぞ西東をば知りける。かゝる間に皆夜明けて手あらひ例の事どもして晝になりぬ。いましはねといふ所にきぬ。わかき童この所の名を聞きて「はねといふ所は鳥の羽のやうにやある」といふ。まだ幼き童のことなれば人々笑ふ。時にありける女の童なむこの歌をよめる、
[#ここから1字下げ]
「まことにて名に聞く所はねならば飛ぶがごとくにみやこへもがな」
[#ここで字下げ終わり]
とぞいへる。男も女もいかで疾く都へもがなと思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねどげにと思ひて人々わすれず。このはねといふ所問ふ童の序にて(ぞイ)、又昔の人を思ひ出でゝいづれの時にか忘るゝ。今日はまして母の悲しがらるゝ事は、くだりし時の人の數足らねば、ふるき歌に「數はたらでぞかへるべらなる」といふことを思ひ出でゝ人のよめる、
[#ここから1字下げ]
「世の中におもひや(あイ)れども子を戀ふる思ひにまさる思ひなきかな」
[#ここで字下げ終わり]
といひつゝなむ。
十二日、雨降らず。文時、維茂が船のおくれたりし。ならしつより室津に(つイ有)きぬ。
十三日の曉にいさゝか小(にイ)雨ふる。しばしありて止みぬ。男女これかれ、ゆあみなどせむとてあたりのよろしき所におりて行く。海を見やれば、
[#ここから1字下げ]
「雲もみな浪とぞ見ゆる海士もがないづれか海と問ひて知るべく」
[#ここで字下げ終わり]
となむ歌よめる。さて十日あまりなれば月おもしろし。船に乘り始めし日より船には紅こくよききぬ着ず。それは海の神に怖ぢてといひて、何の蘆蔭にことづけてほやのつまのいずしすしあはびをぞ心にもあらぬはぎにあげて見せける。
十四日、曉より雨降れば同じ所に泊れり。船君せちみす。さうじものなければ午の時より後に※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取の昨日釣りたりし鯛に、錢なければよねをとりかけておちられぬ。かゝる事なほありぬ。※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取又鯛もてきたり。よね酒しばしばくる。※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取けしきあしからず。
十五日、今日小豆粥煮ず。口をしくなほ日のあしければゐざるほどにぞ今日廿日あまり經ぬる。徒に日をふれば人々海をながめつゝぞある。めの童のいへる、
[#ここから1字下げ]
「立てばたつゐれば[#「ゐれば」は底本では「ゐれは」]又ゐる吹く風と浪とは思ふどちにやあるらむ」。
[#ここで字下げ終わり]
いふかひなきものゝいへるにはいと似つかはし。
十六日、風浪やまねば猶同じ所にとまれり。たゞ海に浪なくしていつしかみさきといふ所渡らむとのみなむおもふ。風浪ともにやむべくもあらず。ある人のこの浪立つを見て詠めるうた、
[#ここから1字下げ]
「霜だにもおかぬかたぞといふなれど浪の中にはゆきぞ降りける」。
[#ここで字下げ終わり]
さて船に乘りし日よりけふまでに廿日あまり五日になりにけり。
十七日、曇れる雲なくなりて曉月夜いとおもしろければ、船を出して漕ぎ行く。このあひだに雲のうへも海の底も同じ如くになむありける。うべも昔のをのこは「棹は穿つ波の上の月を。船は襲ふ海のうちの空を」とはいひけむ。きゝされに聞けるなり。又ある人のよめる歌、
[#ここから1字下げ]
「みなそこの月のうへより漕ぐふねの棹にさはるは桂なるら(べイ)し」。
[#ここで字下げ終わり]
これを聞きてある人の又よめる、
[#ここから1字下げ]
「かげ見れば浪の底なるひさかたの空こぎわたるわれぞさびしき」。
[#ここで字下げ終わり]
かくいふあひだに夜やうやく明けゆくに、※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取等「黒き雲にはかに出できぬ。風も吹きぬべし。御船返してむ」といひてかへる。このあひだに雨ふりぬ。いとわびし。
十八日、猶同じ所にあり。海あらければ船いださず。この泊遠く見れども近く見れどもいとおもしろし。かゝれども苦しければ何事もおもほえず。男どちは心やりにやあらむ、からうたなどいふべし。船もいださでいたづらなればある人の詠める、
[#ここから1字下げ]
「いそぶりの寄する磯には年月をいつとも分かぬ雪のみぞふる」
[#ここで字下げ終わり]
この歌は常にせぬ人のごとなり。又人のよめる、
[#ここから1字下げ]
「風による浪のいそにはうぐひすも春もえしらぬ花のみぞ咲く」。
[#ここで字下げ終わり]
この歌どもを少しよろしと聞きて、船のをさしける翁、月頃の苦し
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
紀 貫之 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング