心やあらむ、心もとなし。
四日、風吹けばえ出でたゝず。昌連酒よき物たてまつれり。このかうやうの物もて來るひとになほしもえあらでいさゝげわざせさすものもなし。にぎはゝしきやうなれどまくるこゝちす。
五日、風浪やまねば猶同じ所にあり。人々絶えずとぶらひにく。
六日、きのふのごとし。
七日になりぬ。同じ湊にあり。今日は白馬を思へどかひなし。たゞ浪の白きのみぞ見ゆる。かゝる間に人の家(野イ)の池と名ある所より鯉はなくて鮒よりはじめて川のも、海のも、ことものども、ながびつにになひつゞけておこせたり。わかなこに入れて雉など花につけたり(十七字イ無)。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。そのうた、
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「淺茅生の野邊にしあれば水もなき池につみつるわかななりけり」。
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いとをかしかし。この池といふは所の名なり。よき人の男につきて下りて住みけるなり。この長櫃の物は皆人童までにくれたれば、飽き滿ちて舟子どもは腹皷をうちて海をさへおどろかして浪たてつべし。かくてこの間に事おほかり。けふわりごもたせてきたる人、その名などぞや、今思ひ出でむ。この人歌よまむと思ふ心ありてなりけり。とかくいひいひて浪の立つなることゝ憂へいひて詠める歌、
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「ゆくさきにたつ白浪の聲よりもおくれて泣かむわれやまさらむ」
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とぞ(ぞイ無)詠める。いと大聲なるべし。持てきたる物より歌はいかゞあらむ。この歌を此彼あはれがれども一人も返しせず。しつべき人も交れゝどこれをのみいたがり物をのみくひて夜更けぬ。この歌ぬしなむ「またまからず」といひてたちぬ。ある人の子の童なる密にいふ「まろこの歌の返しせむ」といふ。驚きて「いとをかしきことかな。よみてむやは。詠みつべくばはやいへかし」といふ(にイ有)。「まからずとて立ちぬる人を待ちてよまむ」とて求めけるを、夜更けぬとにやありけむ、やがていにけり。「そもそもいかゞ詠んだる」といぶかしがりて問ふ。この童さすがに耻ぢていはず。強ひて問へばいへるうた、
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「ゆく人もとまるも袖のなみだ川みぎはのみこそぬれまさりけれ」
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となむ詠める。かくはいふものか、うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。童ごとにては何かはせむ、女翁にをしつべし、悪しくもあれいかにもあれ、たよりあらば遣らむとておかれぬめり。
八日、さはる事ありて猶同じ所なり。今宵の月は海にぞ入る。これを見て業平の君の「山のはにげて入れずもあらなむ」といふ歌なむおもほゆる。もし海邊にてよまゝしかば「浪たちさへて入れずもあらなむ」と詠みてましや。今この歌を思ひ出でゝある人のよめりける、
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「てる月のながるゝ見ればあまの川いづるみなとは海にざ(ぞあイ)りける」
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とや。
九日、つとめて大湊より那波の泊をおはむとて漕ぎ出でにけり。これかれ互に國の境の内はとて見おくりにくる人數多が中に藤原のときざね、橘の季衡、長谷部の行政等なむみたちより出でたうびし日より此所彼所におひくる。この人々ぞ志ある人なりける。この人々の深き志はこの海には劣らざるべし。これより今は漕ぎ離れて往く。これを見送らむとてぞこの人どもは追ひきける。かくて漕ぎ行くまにまに海の邊にとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見えずなりぬ。岸にもいふ事あるべし、船にも思ふことあれどかひなし。かゝれどこの歌を獨言にしてやみぬ。
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「おもひやる心は海を渡れどもふみしなければ[#「なければ」は底本では「なれば」]知らずやあるらむ」。
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かくて宇多の松原を行き過ぐ。その松の數幾そばく、幾千年へたりと知らず。もとごとに浪うちよせ枝ごとに鶴ぞ飛びかふ。おもしろしと見るに堪へずして船人のよめる歌、
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「見渡せば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる」
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とや。この歌は所を見るにえまさらず。かくあるを見つゝ漕ぎ行くまにまに、山も海もみなくれ、夜更けて、西ひんがしも見えずして、てけのこと※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取の心にまかせつ。男もならはねば(二字ぬはイ)いとも心細し。まして女は船底に頭をつきあてゝねをのみぞなく。かく思へば舟子※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取は船歌うたひて何とも思へらず。そのうたふうたは、
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「春の野にてぞねをばなく。わが薄にて手をきるきる、つんだる菜を、親やまほるらむ、姑やくふらむ。かへらや。よんべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこずおのれだにこず」。
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これなら
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