きた。仙妃の手はまた青年の手にかかっていた。
「お前、もう飽いたならあっちへ往こう」
「は」
 青年が起つと仙妃も起って、そのまま青年を伴《つ》れて往った。侍女達は手に手に綺麗な燈を持って案内した。そこは珍しい織物を張り詰めた狭い室で、翠《みどり》の帳《とばり》の中には紅い花のような榻《ねだい》があった。そこへ往くと仙妃が言った。
「私はお前と宿縁があったから、お前を召《よ》んだ、良夜易闌、可即帰寝」
 小吏不敢辞、遂侍仙妃枕席。とろとろと燃える燈の光は仙妃の左か右かの眉尻《まなじり》にある小さな疵痕を見せた。青年は幸福に浸りながらその疵痕に眼をやった。
 朝になると仙妃は、
「お前をいつまでもここにおきたいが、そんなことをしては、天の咎めがある」
 と、言って傍の箱から衣裳を取り出してそれを青年の前において、
「これを記念《かたみ》にあげる、私と思って持って往くように、そのうちに召びよせるから」
 青年は仙宮を出てまた元の貧しい盗尉部の小吏になるのが厭であったが、そのままいることもできないのでその衣裳をもらって帰ることにすると、仙妃はかの老嫗を呼んで言いつけた。
「この方をお送りするが良い」
 そこで老嫗はもじもじしている青年を伴れて外へ出、昨日の処へ往くともう前日と同じような車が待っていた。
「さあ、お乗りください」
 青年が乗ると老嫗は続いて乗りながら、前日と同じように昇降口の扉も窓の扉も締めてしまった。同時に車は走りだした。そして、前日のように甃石路《いししきみち》を走り、石橋を越えなどして往ったが、やがてぴったりと停まった。
「さあ、帰りました」
 老嫗は昇降口の扉を開けて青年が降りられるように体を片寄せた。青年は車を離れるのが残り惜しいような気がしたが、降りないわけにゆかないのでそのまま降りた。仙妃からもらった衣裳をしっかり持って。
 そこは前日車に乗った処であった。青年がぼんやりと前日のことを頭に浮べたところで、車は飛ぶようにむこうの方へ往ってしまった。

 青年は仙妃のことが忘れられないので、その翌日から仙妃にもらった衣裳を身に着けて歩いた。それは普通の民家でこしらえる衣《きもの》ではなかった。昨日まで朝夕《あさばん》の生活《くらし》に困っていたものがそうした衣を着たので、たちまち周囲の疑惑を招いた。青年はたちまち執《とら》えられた。青年は泣いて身の
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