なたは、何方にゐらつしやるんです、)
(私、先つき此方へ参りましたんですよ、)
 女が淋しさうに云つた。
(それぢや、宿にはまだお這入りにならないんですね、)
(ええ、ちよつと、なんですから、)
彼はふと女は誰か待合はす者でもあるかも判らないと思ひ出した。
(こんな遅くなつて、一人かうしてゐらつしやるから、ちつとお尋ねしたんです、)
(有難うございます、あなたはこのあたりの旅館にいらつしやるの、)
(五六日前から、すぐ其所の鶏鳴館と云ふのに来てゐるんです。もしお宿の都合で、他がいけないやうならお出なさい、私は三島と云ふんです、)
(有難うございます、もしかすると、お願ひいたします、三島さんとおつしやいますね、)
(さうです、三島譲と云ひます、ぢや、失敬します、御都合でお出でなさい、)
 彼は女と別れて歩いたが弱弱しい女の態度が気になつて、もしかするとよく新聞で見る自殺者の一人ではないだらうかと思ひ出した。彼は歩くのを止めて松の幹の立ち並んだ蔭からそつと女の方を覗いた。
 女は顔に両手の掌を当ててゐた。それは確かに泣いてゐるらしかつた。彼はもう夕飯のことも忘れてぢつとして女の方を見てゐた
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