月が射したやうになつてゐた。譲は眼が覚めたやうに四辺を見まはした。庭には天鵞絨を敷いたやうな青々した草が生えて、玄関口と思はれる障子に灯の点いた方には、陵苔の花のやうな金茶色の花が一めんに垂れさがつた木が一本立つてゐた。その花の香であらう、甘い毒々しい香が鼻に滲みた。
「此所は姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないんですよ、」
 譲は上へあげられたりしては困ると思つた。
「僕は此所にをりますから、お這入りなさい、あなたがお這入りになつたら、すぐ帰りますから、」
「まあ、ちよつと姉に会つてください、お手間は取らせませんから、」
「すこし、僕は用事がありますから、」
「でも、ちよつとなら好いでせう、」
 女はさう云つてから玄関の方へ歩いて行つて花の下つてをる木の傍をよけるやうにして行つた。譲は困つて立つてゐた。
 家の内へ向けて何か云ふ女の声が聞えて来た。譲はその声を聞きながら秋になつても草の青々としてゐる庭の様に心をやつてゐた。
 艶かしい女の声が聞えて来た。譲は女の姉さんといふ人であらうかと思つて顔をあげた。内玄関と思はれる方の格子が開いて銀色の火の光が明るく見え、その光を背にして上り口に
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