蟇の血
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)眼をあげると[#「眼をあげると」は底本では「眠をあげると」]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)怖は/\
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一
三島譲は先輩の家を出た。まだ雨が残つてゐるやうな雨雲が空いちめんに流れてゐる晩で、暗い上に雨水を含んだ地べたがジクジクしてゐて、はねがあがるやうで早くは歩けなかつた。その上、山の手の場末の町であるから十時を打つて間もないのに、両側の人家はもう寝てしまつてひつそりとしてゐるので、非常に路が遠いやうに思はれて来る。で、車があるなら電車まで乗りたいと思ひ出したが、夕方来る時車のあるやうな所もなかつたのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩に相談してゐた女のことが意識に登つて来た。……(もすこし女の身元や素状を調べる必要があるね、)と云つた先輩の言葉が浮んで来た。……法科出身の藤原君としては、素状も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思ふのはもつともなことだが、過去はどうでも好いだらう。此の国の海岸の町に生れて三つの年に医者をしてゐた父親に死なれ、母親が再縁した漁業会社の社長をしてゐる人の所で大きくなり、三年前に母が亡くなつた頃から家庭が冷たくなつて来たので、昨年になつて家を逃げ出したと云ふのが本当だらう。血統のことなんかは判らないが。大したこともないだらう……。
……(一体女がそんな手もなく出来るもんかね、)と云つて笑つた先輩の言葉がふとまた浮んで来る。……なるほど考へて見ると彼の女を得たのはむしろ不思議と思ふくらゐに偶然な機会からであつた。しかし世間一般の例から云つてみるとありふれた珍しくもないことである。自分は今度の高等文官試験の本準備にかかる前に五六日海岸の空気を吸ふてみるためであつたが、一口に云へば一人の若い男が海岸へ遊びに行つてゐて、偶然に若い女と知合になりその晩の内に離れられないものとなつてしまつたと云ふ、毎日新聞の社会記事の中にある簡単な事件で、別に不思議でもなんでもない。
女と交渉を持つた日の情景がぼうとなつて浮んで来る。……黄いろな夕陽の光が松原の外にあつたが春の日のやうに空気が湿つてゐて、顔や手先の皮膚がとろとろとして眠いやうな日であつた。彼は松原に沿うた櫟林の中を縫ふてゐる小路を抜けて行つた。それはその海岸へ来てから朝晩に歩いてゐる路であつた。櫟の葉はもう緑が褪せて風がある日にはかさかさと云ふ音をさしてゐた。
その櫟林の先はちよつと広い耕地になつてゐて黄いろに染まつた稲があつたり大根や葱の青い畑があつた。其処には、櫟林に平行して里川が流れてゐて柳が飛び飛びに生えてゐる土手に、五六人の者がちらばつて釣を垂れてゐた。人の数こそ違つてゐるがそれは彼が毎日見かける趣であつた。その魚釣の中には海岸へ遊びに来てゐる人も一人や二人は屹と交つてゐた。そんな人は宿の大きなバケツを魚籃の代りに持つてゐて、覗いてみると時たま小さな鮒を一二尾釣つてゐたり、四五寸ある沙魚を持つてゐたりする。
彼が歩いて来た道がその里川に支へられた所には、上に土を置いた板橋がかかつてゐた。その橋の右の袂にも釣竿を持つた男が立つてゐた。それは鼻の下に靴ばけのやうな髭を生やした頬骨の出た男で、黒のモスの兵児帯を尻高に締めてゐた。小学校の教師か巡査かとでも云ふ物腰であつた。彼はその足元に置いてある魚籃を覗いて見た。其所には五六尾の沙魚が這入つてゐた。
(沙魚が釣れましたね、)
と彼が挨拶のかはりに云ふと、
(今日は天気の具合が好いから、もすこし釣れさうなもんですが、釣れません、)[#「釣れません、)」は底本では「釣れません、」」]
(やつぱり天気によりますか、なあ、)
(あんまり、明るい、水の底まで見える日は、いけないですよ、今日も、もすこし曇ると、なほ好いんですが、)
(さうですか、なあ、)
彼はちよつと空の方を見た。薄い雲が流れてそれが網の目のやうになつてゐた。彼はその雲を見た後に川の土手の方と行かうと思つて、板橋の上に眼をやつたところで橋の向ふ側に立つて此方の方を見てゐる若い女を見付けた。紫の目立つ銘仙かなにかの派手な模様のついた着物で小柄なその体を包んでゐた。ちよつと小間使か女学生かと云ふふうであつた。色の白い長手な顔に黒い眼があつた。彼は何所かこのあたりの別荘へ来てゐる者だらうと思つたきりで、それ以上別に好奇心も起らないので、女のことは意識の外に逸してその土手を上手の方へと歩いて行つた。
二丁ばかりも行くともう左側に耕地がなくなつて松原の赤土の台地が来た。其所にも川の向ふへ渡る二本の丸太を並べて架けた丸木橋があつたが、
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