彼はそれを渡らずに台地の方へと、爪先きあがりの赤土を踏んであがつて行つた。
 其所には古い大きな黒松があつてその浮き根が其所此所に土蜘蛛が足を張つたやうになつてゐた彼は昨日も一昨日もその一つの松の浮き根に腰をかけて雑誌を読んでゐたので、その日もまた昨日腰をかけて親しみを持つてゐた根へ行つて、腰をかけながら川下の方を見た。薄い鈍い陽の光の中に釣人達は絵に画いた人のやうに黙黙として立つてゐた。彼は先つきの女のことをちよつと思ひ出したので、見直してみたがもうそれらしい姿は見えなかつた。
 彼は何時の間にか懐に入れてゐた雑誌を取り出して読みはじめた。読んでゐる内に面白くなつて来たので、もう他のことは一切忘れてしまつて、夢中になつて読み耽つてゐた。それは軍備縮少の徹底的主張とか、生存権の脅威から来る社会的罪悪の諸相観とか、華盛頓会議と軍備縮限とかさう云ふやうな見出しを置いた評論文であつた。そして、実生活の煩労から哲学と宗教の世界へと云ふやうな、思想家として有名な某文士の評論を読みかけたところで、頭を押し付けられるやうな陰鬱な感じがするので、読むことを止めて眼をあげると[#「眼をあげると」は底本では「眠をあげると」]、もう陽が入つたのか四辺が灰色になつてゐた。旅館で飯の仕度をして待つてゐるだらうと思つたので、帰らうと思つて雑誌を懐に入れながらふと見ると、右側のちよつと離れた草の生へた所に女が一人低まつた方に足を投げ出し、両手で膝を抱くやうにして何か考へるのか首を垂れてゐる。それは着物の色彩の具合が先つき板橋の向ふで見た女のやうであつた。
 彼は不審に思ふた。先つきの女が何故今までこんな所にゐるのだらう、それとも自分と同じやうに一人で退屈してゐるから散歩に来て遊んでゐるのだらうか、しかし、あんなに垂れて考へ込んでゐるところを見ると何か事情があるかも判らない、傍へ寄つて行つたら気味を悪がるかも判らないが一つ聞いてやらうと思つた。で、腰をあげて歩きかけたが、そつと行くのは何か野心があつてねらひ寄るやうで疚しいので、軽い咳を一二度しながら威張つたやうに歩いて行つた。
 女は咳と足音に気がついて此方を見た。それは確に先つきの女であつた。女は別に驚きもしないふうですぐ顔を向ふの方へ向けてしまつた。彼は茱萸の枝に着物の裾を引つかけながらすぐ傍へと行つた。女は綺麗な顔をまた此方に向けた。
(あなたは、何方にゐらつしやるんです、)
(私、先つき此方へ参りましたんですよ、)
 女が淋しさうに云つた。
(それぢや、宿にはまだお這入りにならないんですね、)
(ええ、ちよつと、なんですから、)
彼はふと女は誰か待合はす者でもあるかも判らないと思ひ出した。
(こんな遅くなつて、一人かうしてゐらつしやるから、ちつとお尋ねしたんです、)
(有難うございます、あなたはこのあたりの旅館にいらつしやるの、)
(五六日前から、すぐ其所の鶏鳴館と云ふのに来てゐるんです。もしお宿の都合で、他がいけないやうならお出なさい、私は三島と云ふんです、)
(有難うございます、もしかすると、お願ひいたします、三島さんとおつしやいますね、)
(さうです、三島譲と云ひます、ぢや、失敬します、御都合でお出でなさい、)
 彼は女と別れて歩いたが弱弱しい女の態度が気になつて、もしかするとよく新聞で見る自殺者の一人ではないだらうかと思ひ出した。彼は歩くのを止めて松の幹の立ち並んだ蔭からそつと女の方を覗いた。
 女は顔に両手の掌を当ててゐた。それは確かに泣いてゐるらしかつた。彼はもう夕飯のことも忘れてぢつとして女の方を見てゐた……
 譲はふと道の曲り角に来たことに気がついた。で、左に折れ曲らうとして見ると、其所に一軒の門口が見えて、出口に一本の欅があり、その欅の後にあつた板塀の内の柱に門燈が光つてゐたが、それは針金の網に包んだ円い笠に被れたもので、その柱に添うて女竹のやうな竹が二三本立ち小さなその葉がぢつと立つてゐた。ふと見るとその電燈の笠の内側に黒い斑点が見えた。それは壁虎であつた。壁虎は餌を見付けたのか首を出したがその首が五寸ぐらゐも延びて見えた。彼はやつと思つて足を止めた。電燈の笠が地球儀の舞ふやうにくるくると舞ひ出した。彼は厭なものを見たのだと思つて路の悪いことも忘れて小走りに左の方へと曲つて行つた。

          二

 譲は奇怪な思ひに悩まされながら歩いてゐたがその内に頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんな馬鹿気たことのある筈がない、神経の具合であんなに見えたものであらうと思ひ出した。しかしそれが神経の具合だとすると、自分は今晩どうかしてゐるかも判らない、もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思ひ出した。さう思ふと憂鬱な気持になつて来た。
 譲はその憂鬱な気持の中で、偶然な機会から女を
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