にした。
「失礼します、」
譲はその手を振り払ふとともに起ちあがつて、年増の傍を擦り抜けて逃げ走つた。
「この馬鹿、なにをする、」
年増の声がするとともに譲は後から掴まへられてしまつた。それでも彼はどうかして逃げやうと思つてもがいたが、振り放すことは出来なかつた。
「奥様、どういたしませう、この馬鹿者は仕やうがありませんよ、」
年増が云ふと主婦の返事が聞えた。
「此所へ連れて来て縛つておしまひ、野狐がついてるから、その男はとても駄目だ、」
妹と若い女中とが這入つて来たが女中の手には少年を縛つてあつたやうな青い長い紐があつた。
「縛るんですか、」
女中が云つた。
「奥様のお室へ縛るんですよ、」
年増はかう云ひ云ひひどい力で譲を後へ引張つた。譲はよたよたと後へ引きずられた。
「その馬鹿者をぐるぐる縛つて、寝台の上へ乗つけてお置き、一つ見せるものがあるから、見ておいで、私がいびつてやる、」
主婦は室の中に立つてゐた。同時に青い紐はぐるぐると譲の体に捲きついた。
「私が寝台の上へ乗つけやう、その代り、奥様の後で、私がいびるんですよ、」
年増はふうふうふうと云ふやうに笑ひながら、譲の体を軽軽と抱きあげて寝台の上へ持つて行つた。譲はもがいて体を振つたがその甲斐がなかつた。
「あの野狐を連れてお出で、野狐から先きつまんでやる、」
主婦はさう云ひながら寝台の縁へまた腰をかけた。譲の眼前は暗くなつてなにも見ることが出来なかつた。譲は仰向けに寝かされてゐたのであつた。
女達の何か云つて笑ふ声が耳元に響いてゐた。そして一時間たつたのか二時間たつたのか、怪しい時間がたつたところで譲は顔を一方にねぢ向けられるやうにせられた。
「この馬鹿者、よく見るんだよ、お前さんの好きな野狐を見せてやる、」
それは主婦の声であつた。譲の眼はぱつちりと開いた。年増が若い女の首筋を掴んで立つてゐた。それは下宿屋に置いてあつた彼の女であつた。譲ははね起きやうとしたが動けなかつた。譲は激しく体を動かした。
「その野狐をひねつて見せておやりよ、その野狐がだいち悪い、」
主婦が云ふと年増は女の首に両手をかけて強く締めつけた。と、女の姿はみるみる赤茶けた色の獣となつた。
「色女が死ぬるんだよ、悲しくはないかね、」
譲の眼前には永久の闇が来た。女達の笑ふ声がまた一しきり聞えた。
譲の口元から頬にかけて気味悪い暖な舌がべろべろとやつて来た。
三島譲と云ふ高等文官の受験生が、数日海岸の方へ旅行すると云つて、下宿を出たつきりゐなくなつたので、その友人達が詮議をしてゐると、早稲田のある空家の中に原因の分らない死方をして死んでゐたと云ふ記事が、ある日の新聞に短く乗つてゐた。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」
1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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