受け取つた。
「この薬を飲んで利かなけれや、もう仕方がない、皆でいびつてから、餌にしませうよ、ひつ、ひつ、ひつ、」
 老婆は歯の抜けた歯茎を見せながらコツプを持つて少年の傍へ行つて、片手の指先をその口の中へ差し入れ、軽々と口をすこし開かしてコツプの血を注ぎ込んだ。少年は大きな吐息をした。
 譲は奇怪な奥底の知れない恐怖にたへられなかつた。彼はどうかして逃げ出さうと思つて窓を離れて暗い中を反対の方へと歩いた。其所には依然として冷たい壁があつた。しかし戸も開けずに廊下から続いてゐた室であるから、出口のないことはないと思つた。彼は壁を探り探り左の方へと歩いて行つた。と、壁が切れて穴のやうな所があつた。譲は今通つて来た所だと思つて其所を出た。
 ぼんやりした薄白い光が射して、その先に広い庭が見えた。譲は喜んだ。玄関口でなくとも外へさへ出れば、帰られないことはないと思つた。其所には庭へをりる二三段になつた階段が付いてゐた。譲はその階段へと足をかけた。
 譲が廊下で抱き縮めた女と同じぐらゐな年格好をした年増の女が、両手に大きなバケツを持つて左の方からやつて来た。譲は見付けられてはいけないと思つたので、そつと後戻りをして出口の柱の蔭に立つてゐた。
 太つた女はちようど譲の前の方へ来てバケツを置き、庭先の方へ向いて犬なんかを呼ぶやうに口笛を吹いた。庭の方には天鵞絨のやうな草が青青と生へてゐた。太つた女の口笛が止むと、その草が一めんに動き出して、その中から小蛇の頭が沢山見え出した。それは青い色のものもあれば黒い色のもあつた。その蛇がによろによろと這ひ出して来て女の前へ集まつて来た。
 女はそれを見るとバケツの中へ手を入れて中の物を掴み出して投げた。それはなんの肉とも判らない血みどろになつた生生しい肉の片であつた。蛇は毛糸をもつらしたやうに長い体を仲間にもつらし合つてうようよとして見えた。
 譲は眼前が暗むやうな気がして内へと逃げ這入つた。その譲の体は軟かな手で又抱き縮められた。
「どんなにか探したか判らないんですよ、何所にゐらしたんです、」
 譲は顫へながら相手を見た。それは彼の年増の女であつた。

          六

「あなたは、ほんとにだだつ子ね、そんなにだだをこねられちや、私が困るぢやありませんか、此方へゐらつしやいよ、」
 年増は譲の両手を握つて引張つた。譲はどうしても逃げて帰りたかつた。
「僕を帰してください、僕は大変な用事がある、ゐることは出来ないから、帰してください、」
 譲は女の手を振り払はうとしたが離れなかつた。
「そんな無理なことを云ふもんぢやありませんよ、あなたの御用つて、下宿に女の方が待つてるだけのことでせう、」
「そんなことぢやないんです、」
「さうですよ、私にはちやんと判つてるんですよ、その女よりか、いくら家の奥さんが好いか判らないぢやありませんか、ほんとうにあなたは、慾を知らない方ね、此方へゐらつしやいよ、いくら逃げやうとしたつて、今度は放しませんよ、ゐらつしやいよ、」
 女はぐんぐんとその手を引張り出した。譲の体は崩れるやうになつて引張られて行つた。
「放してください、」
「駄目よ、男らしくないことを云ふもんぢやありませんよ、」
 譲は室の中へ引張り込まれた。其所は青い帷を張つたはじめの室であつた。
「奥様がどんなに待つてゐらつしやるか判りませんよ、此方へゐらつしやいよ、」
 年増は片手を離してそれで帷を捲くやうにして無理やりに譲の体をその中へ引込んだ。
 其所には真中に寝台があつてその寝台の縁に綺麗な主婦が腰をかけて、ぢつと眼を据ゑて這入つて来る譲の顔を見てゐた。その室の三方には屏風とも衝立とも判らないものを立てまはして、それに色彩の濃い奇怪な絵を画いてあつた。
「ほんとにだだつ子で、やつと掴まへてまゐりました、」
 年増は譲を主婦の傍へ引張つて行つて、主婦の向ふ側の寝台の縁へ腰をかけさせやうとした。
「放してください、僕は駄目です、僕は用事があるんです、僕は厭です、」
 譲は年増の女を振り放して逃げやうとしたが放れなかつた。
「駄目ですよ、もうなんと云つても放しませんよ、そんな馬鹿なことをせずに、ぢつとしてゐらつしやいよ、本当にあなたは馬鹿ね、え、」
 主婦の眼は譲の顔から離れなかつた。
「おとなしくだだをこねずに、奥さんのお相手をなさいよ、」
 年増は押へ付けるやうにして、譲を寝台の縁へかけさした。譲は仕方なしに腰をかけながら、ただ逃げ出さうとしても逃げられないから、油断をさしておいて隙を見て逃げやうと思つたが、頭が混乱してゐて落ちついてはゐられなかつた。
「そんなに急がなくつたつて、ゆつくりなされたら好いぢやありませんか、」
 主婦は年増の放した譲の手に軽く自分の手をかけて、心持ち譲を引き寄せるやう
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