がりなさいましよ」は底本では「あおがりなさいましよ」]、」
譲は後の酒を一口飲んでしまつて、コツプを置くと腰をすかすやうにして、
「折角ですけれど、本当に急ぎますから、これで失礼します、」
女はコツプを投げるやうに置いて、立つて来て譲の肩に両手を軽くかけて押へるやうにした。
「もう妹も伺ひますから、もうすこしゐらしてくださいまし、」
譲の肉体は芳烈にして暖かな呼吸のつまるやうな厭迫を感じて動くことが出来なかつた。女の体に塗つた香料は男の魂を縹渺の界へ連れて行つた。
「何人だね、今は御用がないから、彼方へ行つてお出で、」
女の声で譲は意識がまはつて来た。その譲の頭に自分を待つてゐる女のことがちらと浮んだ。譲は起ちあがつた。女はもとの椅子に腰をかけてゐた。
「まあ、まあ、そんなに、お婆さんを嫌ふもんぢやありませんよ、」
女の艶めかしい笑顔があつた。譲は今一思ひに出ないとまた暫く出られないと思つた。
「これで失礼します、」
譲は扉のある所へ走るやうに行つて急いで扉を開けて出た。
廊下には丸髷に結つた年増の女が立つてゐて譲を抱き止めるやうにした。
「何人です、放してください、僕は急いでゐるんです、」
譲は振り放さうとしたが放れなかつた。
「まあ、ちよつと待つてくださいましよ、お話したいことがあるんですから、」
譲は仕方なしに立つた。そして彼の女が追つて出て来やしないかと思ひながら注意したがそんなふうはなかつた。
「すこし、お話したいことがありますから、ちよつと此方へゐらしてくださいよ、ちよつとで好いんですから、」
年増女は手を緩めたがそれでも前から退かなかつた。
「どんなことです、僕は非常に急いでゐるんですから、此方の奥さんの止めるのも聞かずに、逃げて帰るところですから、なんですか早く云つてください、どんなことです、」
「此所ではお話が出来ませんから、ちよつとこの次の室へゐらしてください、ちよつとで好いんですから、」
譲は争つてゐるよりも、ちよつとで済むことなら、聞いてみやうと思つた。
「では、ちよつとなら聞いても好いんです、」
「ちよつとで好いんですよ、来てください、」
年増の女が歩いて行くので従いて行くとすぐ次の室の扉を開けて這入つた。
中には手前の壁に寄せかけて安楽椅子をはじめ五六脚の形の違つた椅子を置きその向ふには青い帷を引いてあつた。其所は寝室らしかつた。
「さあ、ちよつと此所へかけてくださいよ、」
年増の女が入口に近い椅子に指をさすので譲は急いで腰をかけた。
「なんですか、」
年増の女はその前に近く立つたなりで笑つた。
「そんなに邪見になさるもんぢやありませんよ、」
「なんですか、」
「まあ、そんなにおつしやるもんぢやありませんよ、あなたは、家の奥さんの心がお判りになつたんでせう、」
「なんですか、僕にはどうも判らないですが、」
「そんな邪見なことをおつしやらずに、奥さんは、お一人で淋しがつてゐらつしやいますから、今晩、お伽をしてやつてくださいましよ、かうしてお金が唸るほどある方ですから、あなたの御都合で、どんなことでも出来るんですよ、」
「駄目ですよ、僕はすこし都合があるんですから、」
「洋行でもなんでも、あなたの好きなことが出来るんぢやありませんか、私の云ふことを聞いてくださいよ、」
「それは駄目ですよ、」
「あんたは慾を知らない方ね、」
「どうしても、僕はそんなことは出来ないんです、」
「御容色だつて、あんな綺麗な方は滅多にありやしませんよ、好いぢやありませんか、私の云ふことを聞いてくださいよ、」
「そいつはどうしても駄目ですよ、」
年増の女の片手は譲の片手にかかつた。
「まあ、そんなことをおつしやらずに、彼方へ参りませう。私のことを聞いてくださいよ、悪いことはありませんから、」
譲は動かなかつた。
「駄目です、僕はそんなことは厭だ、」
「好いぢやありませんか、年寄の云ふことを聞くもんですよ、」
譲はもういらいらして来た。
「駄目ですよ、」
叱りつけるやうに掴まへられた手を振り放した。
「あんたは邪見ねえ、」
扉が開いて小さな婆さんがちよこちよこと這入つて来た。頭髪の真白な魚のやうな光沢のない眼をしてゐた。
「どうなつたの、お前さん、」
「駄目だよ、何んと云つても承知しないよ、」
「やれやれ、これもまた手数を食ふな、」
「野狐がついてゐるから、やつぱり駄目だよ、」
年増の女は嘲るやうに云つたが譲の耳にはそんなことは聞えなかつた。彼はその女を突きのけるやうにして外へと飛び出した。室の中で老婆のひいひいと云ふ笑ひ声が聞えた。
五
譲は日本室のやうになつた畳を敷き障子を締めてあつた玄関のある方へ行くつもりで、廊下を左の方へと走るやうに歩いた。電燈なれば被を
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