もんですから、」
 譲はかう云つてからふと電燈の笠のことを思ひ出して、あんなことがあつたらこの女はどうするだらうと思つた。
「本当にお淋しうございますのね、」
「さうですよ、僕達もなんだか厭ですから、あなた方は、なほさらさうでせう、」
「ええ、さうですよ、本当に一人でどうしやうかと思つてゐたんですよ、非常に止められましたけれど、病人で取込んでゐる家ですから、それに、泊るなら親類へ行つて泊らうと思ひまして、無理に出て来たんですが、そのあたりは、まだ沢山起きてた家がありましたが、此所へ来ると、急に世界が変つたやうになりました、」
 傾斜のある狭い暗い路が尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びてゐた。譲はそれを左に折れながらちよつと女の方を振り返つた。綺麗に化粧をした細面の顔があつた。
「こつちですよ、いくらか明るいぢやありませんか、」
「お蔭様で、助かりました、」
「もう、これから先は、そんなに暗くはありませんよ、」
「はあ、これから先は、私もよく存じてをります、」
「さうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね、」
「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます、」
「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは、」
「私は柏木の方ですよ、」
「それは大変ですね、」
「はあ、だから、この先の親類へ泊まらうか、どうしやうかと思つてゐるんですよ、」
 譲はこの女は厳格な家庭の者ではないと思つた。香のあるやうな女の呼吸使ひがすぐ近くにあつた。彼はちよつとした誘惑を感じたが自分の室で机に肱をもたせて、自分の帰りを待つてゐる女の顔がすぐその誘惑を掻き乱した。
「さうですな、もう遅いから親類でお泊りになるが好いでせう、其所まで私が送つてあげませう、」
「どうもすみません、」
「好いです、送つてあげませう、」
「では、すみませんが、」
「その家はあなたが御存じでせう、」
 女は譲の左側に並んで歩いてゐた。
「知つてます、」
 右へと曲る角にバーがあつて入口に立てた衝立の横から浅黄の洋服の胴体が一つ見えてゐたがひつそりとして声はしなかつた。
「こつちへ行くんですか、」
 譲は曲つた方へ指をやつた。
「この次の横町を曲つて、ちよつと行つたところです、すみません、」
「なに好いんですよ、行きませう、」
 路の上が急に暗くなつて来た。何人かがこのあたりに見張つてゐて故意に門燈のスヰッチを[#「スヰッチを」は底本では「ス井ッチを」]ひねつてゐるやうであつた。
「すこし、此方は、暗いんですよ、」
 女の声には霧がかかつたやうになつた。
「さうですね、」
 女はもう何も云はなかつた。

          三

「此所ですよ、」
 蒸し蒸しするやうな物の底に押し込められてゐるやうな気持になつてゐた譲は女の声に気がついて足を止めた。其所にはインキの滲んだやうな門燈の点いてゐる昔風な屋敷門があつた。
「此所ですか、では、失礼します、」
 譲は下宿の女が気になつて来た。彼は急いで女と別れやうとした。
「失礼ですが、内まで、もうすこしお願ひ致したうございますが、」
 女の顔は笑つてゐた。
「さうですか、好いですとも、行きませう、」
 左側に耳門があつた。女はその方へ歩いて行つて門の扉に手をやると扉は音もなしに開いた。女はさうして扉を開けかけてから振り返つて、男の来るのを待つやうにした。
 譲は這入つて行つた。女は扉を支へるやうにして身を片寄せた。譲は女の体と擦れ合ふやうにして内へ這入つた、と女は後から従いて来た。扉は女の後でまた音もなく締つた。
「失礼しました、」
 薄月が射したやうになつてゐた。譲は眼が覚めたやうに四辺を見まはした。庭には天鵞絨を敷いたやうな青々した草が生えて、玄関口と思はれる障子に灯の点いた方には、陵苔の花のやうな金茶色の花が一めんに垂れさがつた木が一本立つてゐた。その花の香であらう、甘い毒々しい香が鼻に滲みた。
「此所は姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないんですよ、」
 譲は上へあげられたりしては困ると思つた。
「僕は此所にをりますから、お這入りなさい、あなたがお這入りになつたら、すぐ帰りますから、」
「まあ、ちよつと姉に会つてください、お手間は取らせませんから、」
「すこし、僕は用事がありますから、」
「でも、ちよつとなら好いでせう、」
 女はさう云つてから玄関の方へ歩いて行つて花の下つてをる木の傍をよけるやうにして行つた。譲は困つて立つてゐた。
 家の内へ向けて何か云ふ女の声が聞えて来た。譲はその声を聞きながら秋になつても草の青々としてゐる庭の様に心をやつてゐた。
 艶かしい女の声が聞えて来た。譲は女の姉さんといふ人であらうかと思つて顔をあげた。内玄関と思はれる方の格子が開いて銀色の火の光が明るく見え、その光を背にして上り口に
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