。前《さき》に入って往った女は華美《はで》な金紗縮緬《きんしゃちりめん》の羽織の背を見せながらその椅子の一つに手をやった。
「どうかおかけくださいまし」
 讓は椅子の傍へ寄って往った。と、女はその左側にある椅子を引き寄せて、讓と斜《ななめ》に向き合うようにして腰をかけたので、讓もしかたなしに椅子を左斜《ひだりななめ》にして腰をかけた。
「はじめまして、僕は三島讓と云うものですが」
 讓が云いはじめると女は手をあげて打ち消した。
「もう、そんな堅くるしいことは、お互《たがい》によしましょう、私はこうした一人者のお婆さんですから、お嫌《いや》でなけりゃこれからお朋友《ともだち》になりましょう」
「僕こそ、以後よろしくお願いいたします」
 讓の帽子を受け執《と》った婢が櫛形《くしがた》の盆に小さな二つのコップと、竹筒のような上の一方に口がつき一方に取手《とって》のついた壺を乗せて持って来た。
「ここへ持っておいで」
 女がさしずすると婢《じょちゅう》は二人の間の卓の端《はし》にその盆を置いてから引き退《さが》ろうとした。
「お嬢さんはどうしたの」
 婢は揮《ふ》り返って云った。
「お嬢さんは、なんだかお気もちが悪いから、もすこしして、お伺《うかが》いすると申しております」
「気もちが悪いなら、私がお対手《あいて》をするのだから、よくなったらいらっしゃいって」
 婢はお辞儀をしてから扉《ドア》を開けて出て往った。
「お茶のかわりに、つまらんものをさしあげましょう」
 女は壺の取手に手を持って往った。
「もうどうぞ、すぐ失礼しますから」
「まあ、およろしいじゃありませんか、何人《たれ》も遠慮する者がありませんから、ゆっくりなすってくださいまし、このお婆さんでおよろしければ、何時《いつ》までもお対手をいたしますから」
 女は壺の液体を二つのコップに入れて一つを讓の前へ置いた。それは牛乳のような色をしたものであった。
「さあ、おあがりくださいまし、私も戴《いただ》きますから」
 讓はさっさと一ぱい饗応《ごちそう》になってから帰ろうと思った。
「では、これだけ戴きます」
 讓は手に執《と》って一口飲んでみた。それは甘味のあるちょっとアブサンのような味のするものであった。
「私も戴きます、召しあがってくださいまし」
 女もそのコップを手にして甞《な》めるようにして見せた。
「折角《せっかく》のなんですけれど、僕は、すこし、今、都合があって急いでいますから、これを一ぱいだけ戴いてから、失礼します」
「まあ、そんなことをおっしゃらないで、こんな夜更《よふ》けに何の御用がおありになりますの、たまには遅く往って、じらしてやるがよろしゅうございますよ」
 女はコップを持ったなりに下顋《したあご》を突きだすようにして笑った。讓もしかたなしに笑った。
「さあ、もうすこしおあがりなさいましよ」
 讓は後《あと》の酒を一口飲んでしまってコップを置くと、腰をすかすようにして、
「折角ですけれど、ほんとうに急ぎますから、これで失礼します」
 女はコップを投げるように置いて、立って来て讓の肩に双手《りょうて》を軽くかけて押えるようにした。
「もう、妹も伺いますから、もうすこしいらしてくださいまし」
 讓の肉体は芳烈にして暖かな呼吸《いき》のつまるような圧迫を感じて動くことができなかった。女の体に塗った香料は男の魂を縹渺《ひょうびょう》の界へ伴《つ》れて往った。
「何人《たれ》だね、今は御用がないから、あちらへ往ってらっしゃい」
 女の声で讓は意識がまわって来た。その讓の頭に己《じぶん》を待っている女のことがちらと浮んだ。讓は起《た》ちあがった。女はもとの椅子に腰をかけていた。
「まあ、まあ、そんなに、お婆さんをお嫌いになるものじゃありませんわ」
 女の艶《なま》めかしい笑顔があった。讓は今|一思《ひとおも》いに出ないとまた暫《しばら》く出られないと思った。
「これで失礼します」
 讓は扉《ドア》のある処へ走るように往って急いで扉を開けて出た。
 廊下には丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った年増《としま》の女が立っていて讓を抱き止めるようにした。
「何人《どなた》です、放してください、僕は急いでるのです」
 讓は揮《ふ》り放そうとしたが放れなかった。
「まあ、ちょっとお待ちくださいましよ、お話したいことがございますから」
 讓はしかたなしに立った。そして、彼《か》の女が追って出て来やしないかと思いながら注意したがそんな容《ふう》はなかった。
「すこし、お話したいことがありますから、ちょっとこちらへいらしてくださいよ、ちょっとで好いのですから」
 年増の女は手を緩めたがそれでも前から退《の》かなかった。
「どんなことです、僕は非常に急いでるのですから、こちらの奥さんの止めるのも聞かずに、逃げて帰るところですから、なんですか早く云ってください、どんなことです」
「ここではお話ができませんから、ちょっと次の室《へや》へいらしてください、ちょっとで好いのですから」
 讓は争っているよりもちょっとで済むことなら、聞いてみようと思った。
「では、ちょっとなら聞いても好いのです」
「ちょっとで好いのですよ、来てください」
 年増《としま》の女が歩いて往くので跟《つ》いて往くとすぐつぎの室《へや》の扉《ドア》を開けて入った。
 中には手前の壁に寄せかけて安楽椅子をはじめ五六脚の形のちがった椅子を置き、そのむこうには青い帷《とばり》を引いてあった。そこは寝室らしかった。
「さあ、ちょっとここへかけてくださいよ」
 年増の女が入口に近い椅子に指をさすので讓は急いで腰をかけた。
「なんですか」
 年増の女はその前に近く立ったなりで笑った。
「そんなに邪見《じゃけん》になさるものじゃありませんよ」
「なんですか」
「まあ、そんなにおっしゃるものじゃありませんよ、あなたは、家の奥さんの心がお判りになったのでしょう」
「なんですか、僕にはどうも判らないのですが」
「そんな邪見なことをおっしゃらずに、奥さんは、お一人で淋しがっていらっしゃいますから、今晩、お伽《とぎ》をしてやってくださいましよ、こうして、お金が唸《うな》るほどある方ですから、あなたの御都合で、どんなことでも出来るのですよ」
「だめですよ、僕はすこし都合があるのですから」
「洋行《ようこう》でもなんでも、あなたの好きなことができるのじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「それはだめですよ」
「あんたは慾《よく》を知らない方ね」
「どうしても、僕はそんなことはできないのです」
「御容色《おきりょう》だって、あんなきれいな方はめったにありませんよ、好いじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「そいつはどうしてもだめですよ」
 年増の女の隻手《かたて》は讓の隻手にかかった。
「まあ、そんなことはおっしゃらずに、あちらへまいりましょう、私のことを聞いてくださいよ、悪いことはありませんから」
 讓は動かなかった。
「だめです、僕はそんなことは厭《いや》だ」
「好いじゃありませんか、年よりの云うことを聞くものですよ」
 讓はもういらいらして来た。
「だめですよ」
 叱りつけるように掴《つか》まえられた手を揮《ふ》り放した。
「あんたは邪見、ねえ」
 扉《ドア》が開《あ》いて小さな婆さんがちょこちょこと入って来た。頭髪《かみ》の真白な魚《うお》のような光沢《つや》のない眼をしていた。
「どうなったの、お前さん」
「だめだよ、なんと云っても承知しないよ」
「やれやれ、これもまた手数《てすう》をくうな」
「野狐《のぎつね》がついてるから、やっぱりだめだよ」
 年増の女は嘲《あざけ》るように云ったが讓の耳にはそんなことは聞えなかった。彼はその女を突きのけるようにして外へ飛びだした。室《へや》の中から老婆のひいひいと云う笑い声が聞えて来た。

      ※[#ローマ数字「V」、1−13−25]

 讓は日本室《にほんま》のようになった畳を敷き障子《しょうじ》を締めてあった玄関のある方へ往くつもりで、廊下を左の方へ走るように歩いた。間接照明をしたようなぼうとした光が廊下に流れていた。そのぼうとした光の中には鬼魅《きみ》の悪い毒どくしい物の影が射《さ》していた。
 讓は底の知れない不安に駆《か》られながら歩いていた。廊下が室《へや》の壁に往き当ってそれが左右に別れていた。讓はちょっと迷ったが、左の方から来たように思ったので、左の方へ折れて往った。と、急に四方が暗くなってしまった。彼はここは玄関の方へ往く処ではないと思って、後帰《あともど》りをしようとすると、そこには冷たい壁があって帰れなかった。讓はびっくりして足を止めた。歩いて来た廊下が判らなくなって一処《ひとところ》明採《あかりと》りのような窓から黄いろな燈《ひ》が光っていた。それは長さが一尺四五寸、縦が七八寸ばかりの小さな光であった。讓はしかたなしにその窓のほうへ歩いて往った。
 窓は讓の首のあたりにあった。讓は窓の硝子《ガラス》窓に顔をぴったりつけてむこうを見た。その讓の眼はそこで奇怪な光景を見出《みいだ》した。黄いろに見える土間のような処に学生のような少年が椅子に腰をかけさせられて、その上から青い紐でぐるぐると縛られていたが、その傍には道伴《みちづれ》になって来た主婦の妹と云う壮《わか》い女と、さっきの小間使のような婢《じょちゅう》が立っていた。二人の女は何かかわるがわるその少年を攻めたてているようであった。少年は眼をつむってぐったりとなっていた。
 讓は釘づけにされたようになってそれを見つめた。婢の方の声が聞えて来た。
「しぶとい人ったらありゃしないよ、何故《なぜ》はいと云わないの、いくらお前さんが強情張ったってだめじゃないの、早くはいと云いなさいよ、いくら厭《いや》だと云ったってだめだから、痛い思いをしないうちに、はいと云って、奥様に可愛がられたら好いじゃないの、はいと云いなさいよ」
 讓は少年の顔に注意した。少年はぐったりとしたなりで唇も動かさなければ眼も開けようともしなかった。妹の方の声がやがて聞えて来た。
「強情はってたら、返してくれるとでも思ってるだろう、ばかな方《かた》ね、家の姉さんが見込んだ限りは、なんとしたって、この家から帰って往かれはしないよ、お前さんはばかだよ、私達が、こんなに心切《しんせつ》に云ってやっても判らないのだね」
「強情はったら、帰れると思ってるから、おかしいのですよ、ほんとうにばかですよ、また私達にいびられて、餌《え》にでもなりたいのでしょうよ」
 婢《じょちゅう》は鬼魅《きみ》の悪い笑いかたをして妹の顔を見た。
「そうなると、私達は好いのだけれど、この人が可哀そうだね、何故《なぜ》こんなに強情をはるだろう、お前、もう一度よっく云ってごらんよ、それでまだ強情をはるようなら、お婆さんを呼んでおいで、お婆さんに薬を飲ませて貰うから」
 婢の少年に向って云う声がまた聞えて来た。
「お前さんも、もう私達の云うことはわかってるだろうから、くどいことは云わないが、いくらお前さんが強情はったって、奥様にこうと思われたら、この家は出られないから、それよりか、はいと云って、奥様の詞《ことば》に従うが好いのだよ、奥様のお詞に従えば、この大きなお邸《やしき》で、殿様のようにして暮せるじゃないかね、なんでもしたいことができて好いじゃないの、悪いことは云わないから、はいとお云いなさいよ、好いでしょう、はいとお云いなさいよ」
 少年はやはり返事もしなければ顔も動かさなかった。
「だめだよ、お婆さんを呼んでお出《い》で、とてもだめだよ」
 妹の声がすると婢はそのまま室《へや》を出て往った。
 妹はその後《あと》をじっと見送っていたが、婢の姿が見えなくなると少年の後《うしろ》へ廻《まわ》って双手《りょうて》をその肩に軽くかけ、何か小さな声で云いだしたが讓には聞えなかった。
 女は少年の左の頬の処へ白い顔を持って往ったが、やがて紅《あか》い唇を差しだしてそれに
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