とぎばなし》を読んでいるような気もちがしてならなかった。
(僕も不思議ですよ、なんだかお伽話を読んでいるような気がするんです)と、云った己の詞も思いだされた。彼は藤原君がそんなことを云うのももっともだと思った。
……女は真暗になった林の中をふらふらと歩きだした。そして、彼の傍を通って海岸の方へ往きかけたが、泣きじゃくりをしていた。彼はたしかに女は自殺するつもりだろうと思ったので助けるつもりになった。それにしても女を驚かしてはいけないと思ったので、女を二三|間《げん》やり過してから歩いて往った。
(もしもし、もしもし)
女はちょっと白い顔を見せたが、すぐ急ぎ足で歩きだした。
(僕はさっきの男です、決して、怪しいものじゃありません、あなたがお困りのようだから、お訊ねするのです、待ってください)
女はまた白い顔をすこし見せたようであったが足は止めなかった。
(もしもし、待ってください、あなたは非常にお困りのようだ)
彼はとうとう女に近寄ってその帯際《おびぎわ》に手をかけた。
(僕はさっきお眼にかかった三島と云う男です、あなたは非常にお困りのようだ)
女はすなおに立ちどまったがそれといっしょに双手《りょうて》を顔に当てて泣きだした。
(何かあなたは、御事情があるようだ、云ってください、御相談に乗りましょう)
女は泣くのみであった。
(こんな処で、話すのは変ですから、私の宿へまいりましょう、宿へ往って、ゆっくりお話を聞きましょう)
彼はとうとう女の手を握った。……
路《みち》はまた狭い暗い通路《とおり》へ曲った。讓は早く帰って下宿の二階で己《じぶん》の帰りを待ちかねている女に安心さしてやりたいと思ったので、爪《つま》さきさがりになった傾斜のある路をとっとと歩きだした。彼の眼の前には無邪気なおっとりした女の顔が見えるようであった。
……(私は死ぬよりほかに、この体を置くところがありません)
家を逃げだして東京へ出てから一二軒|婢《じょちゅう》奉公をしているうちにある私立学校の教師をしている女と知己《しりあい》になって、最近それの世話で某富豪の小間使に往って見ると、それは小間使以外に意味のある奉公で、往った翌晩主人から意外のそぶりを見せられたので、その晩のうちにそこを逃げだしてふらふらと海岸へやって来たと云って泣いた女の泣き声がよみがえって来た。
讓は己の右側を歩いている人の姿に眼を注《つ》けた。路の右側は崖になってその上にはただ一つの門燈が光っていた。右側を歩いている人はこちらを揮《ふ》り返るようにした。
「失礼ですが、電車の方へは、こう往ったらよろしゅうございましょうか」
それは壮《わか》い女の声であった。讓には紅《あか》いその口元が見えたような気がした。彼はちょっと足を止めて、
「そうです、ここを往って、突きあたりを左へ折れて往きますと、すぐ、右に曲る処がありますから、そこを曲ってどこまでもまっすぐに往けば、電車の終点です、私も電車へ乗るつもりです」
「どうもありがとうございます、この前《さき》に私の親類もありますが、この道は、一度も通ったことがありませんから、なんだか変に思いまして……、では、そこまでごいっしょにお願いいたします」
讓は足の遅い女と道づれになって困ると思ったがことわることもできなかった。
「往きましょう、おいでなさい」
「すみませんね」
讓はもう歩きだしたがはじめのようにとっとと歩けなかった。彼はしかたなしに足を遅くして歩いた。
「道がお悪うございますね」
女は讓の後《うしろ》に引き添うて歩きながらどこかしっかりしたところのある詞《ことば》で云った。
「そうですね、悪い道ですね、あなたはどちらからいらしたのです」
「山の手線の電車で、この前《さき》へまでまいりましたが、市内の電車の方が近いと云うことでしたから、こっちへまいりました、市内の電車では、時どき親類へまいりましたが、この道ははじめてですから」
「そうですか、なにしろ、場末《ばすえ》の方は、早く寝るものですから」
讓はこう云ってからふと電燈の笠のことを思いだして、あんなことがあったらこの女はどうするだろうと思った。
「ほんとうにお淋しゅうございますのね」
「そうですよ、僕達もなんだか厭《いや》ですから、あなた方は、なおさらそうでしょう」
「ええ、そうですよ、ほんとうに一人でどうしようかと思っていたのですよ、非常に止められましたけれど、病人でとりこんでいる家ですから、それに、泊るなら親類へ往って泊ろうと思いまして、無理に出て来たのですが、そのあたりは、まだ数多《たくさん》起きてた家がありましたが、ここへ来ると、急に世界が変ったようになりました」
傾斜のある狭い暗い路《みち》が尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びていた。讓はそれを左に折れながらちょっと女の方を揮《ふ》り返った。※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》に化粧をした細面《ほそおもて》の顔があった。
「こっちですよ、いくらか明るいじゃありませんか」
「おかげさまで、助かりました」
「もう、これから前《さき》は、そんなに暗くはありませんよ」
「はあ、これから前は、私もよく存じております」
「そうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね」
「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます」
「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは」
「私は柏木《かしわぎ》ですよ」
「それは大変ですね」
「はあ、だから、この前《さき》の親類へ泊まろうか、どうしようかと思っているのですよ」
讓はこの女は厳格な家庭の者ではないと思った。香《におい》のあるような女の呼吸使《いきづか》いがすぐ近くにあった。彼はちょっとした誘惑を感じたが己の室《へや》で机に肱《ひじ》をもたせて、己の帰りを待っている女の顔がすぐその誘惑を掻《か》き乱した。
「そうですな、もう遅いから、親類でお泊りになるが好いのでしょう、そこまで送ってあげましょう」
「どうもすみません」
「好いです、送ってあげましょう」
「では、すみませんが」
「その家はあなたが御存じでしょう」
女は讓の左側に並んで歩いていた。
「知ってます」
右へ曲る角《かど》にバーがあって、入口に立てた衝立《ついたて》の横から浅黄《あさぎ》の洋服の胴体が一つ見えていたが、中はひっそりとして声はしなかった。
「こっちへ往くのですか」
讓は曲った方へ指をやった。
「このつぎの横町《よこちょう》を曲って、ちょっと往ったところです、すみません」
「なに好いのですよ、往きましょう」
路《みち》の上が急に暗くなって来た。何人《なんびと》かがこのあたりに見はっていて、故意に門燈のスイッチをひねっているようであった。
「すこし、こっちは、暗いのですよ」
女の声には霧がかかったようになった。
「そうですね」
女はもう何も云わなかった。
※[#ローマ数字「III」、1−13−23]
「ここですよ」
蒸し蒸しするような物の底に押し込められているような気もちになっていた讓は、女の声に気が注《つ》いて足をとめた。そこにはインキの滲《にじ》んだような門燈の点《つ》いている昔風な屋敷門があった。
「ここですか、では、失礼します」
讓は下宿の女が気になって来た。彼は急いで女と別れようとした。
「失礼ですが、内まで、もうすこしお願いいたしとうございますが」
女の顔は笑っていた。
「そうですか、好いですとも、往きましょう」
左側に耳門《くぐり》があった。女はその方へ歩いて往って門の扉に手をやると扉は音もなしに開《あ》いた。女はそうして扉を開けてから揮《ふ》り返って、男の来るのを待つようにした。
讓は入って往った。女は扉を支えるようにして身をかた寄せた。讓は女の体と擦れ合うようにして内へはいった。と、女は後《うしろ》から跟《つ》いて来た。扉は女の後でまた音もなく締った。
「しつれいしました」
薄月《うすづき》が射《さ》したようになっていた。讓は眼が覚めたように四辺《あたり》を見まわした。庭には天鵞絨《びろうど》を敷いたような青あおした草が生えて、玄関口と思われる障子に燈《ひ》の点いた方には、凌霄《にんどう》の花のような金茶色の花が一めんに垂れさがった木が一本立っていた。その花の香《か》であろう甘い毒どくしい香《におい》が鼻に滲《し》みた。
「ここは姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないのですよ」
讓は上へあげられたりしては困ると思った。
「僕はここにおりますから、お入りなさい、あなたがお入りになったら、すぐ帰りますから」
「まあ、ちょっと姉に会ってください、お手間はとらせませんから」
「すこし、僕は用事がありますから」
「でも、ちょっとならよろしゅうございましょう」
女はそう云って玄関の方へ歩いて往って、花のさがっている木の傍をよけるようにして往った。讓は困って立っていた。
家の内へ向けて何か云う女の声が聞えて来た。讓はその声を聞きながら秋になっても草の青あおとしている庭の容《さま》に心をやっていた。
艶《なまめ》かしい女の声が聞えて来た。讓は女の姉さんと云う人であろうかと思って顔をあげた。内玄関《うちげんかん》と思われる方の格子戸《こうしど》が開《あ》いて銀色の燈《ひ》の光が明るく見え、その光を背にして昇口《あがりぐち》に立った背の高い女と、格子戸の処に立っている彼《か》の女を近ぢかと見せていた。
讓はあんなに玄関が遠くの方に見えていたのは、眼のせいであったろうと思った。彼はまた電燈の笠のくるくる廻《まわ》ったことを思いだして、今晩はどうかしていると思いながら、花の垂れさがった木の方に眼をやると、廻転機の廻るようにその花がくるくると廻って見えた。
「姉があんなに申しますから、ちょっとおあがりくださいまし」
女が前へ来て立っていた。讓はふさがっていた咽喉《のど》がやっと開《あ》いたような気もちになって女の顔を見たが、頭はぼうとなっていて、なにを考える余裕もないので吸い寄せられるように燈《ひ》のある方へ歩いて往った。歩きながら怖ごわ花の木の方に眼をやって見ると、木は金茶色の花を一めんにつけて静《しずか》に立っていた。
「さあ、どうぞおあがりくださいまし、妹が大変御厄介になりましたそうで、さあ、どうぞ」
讓は何時《いつ》の間にか土間《どま》へ立っていた。背の高い蝋細工《ろうざいく》の人形のような顔をした、黒い数多《たくさん》ある髪を束髪《そくはつ》にした凄いように※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な女が、障子《しょうじ》の引手《ひきて》に凭《もた》れるようにして立っていた。
「ありがとうございます、が、今晩はすこし急ぎますから、ここで失礼いたします」
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょっとおあがりくださいまし、お茶だけさしあげますから」
「ありがとうございます、が、すこし急ぎますから」
「待っていらっしゃる方がおありでしょうが、ほんのちょっとでよろしゅうございますから」
女は潤《うるお》いのある眼を見せた。讓も笑った。
「ちょっとおあがりくださいまし、何人《たれ》も遠慮のある者はいないのですから」
後《うしろ》に立っていた女が云った。
「そうですか、では、ちょっと失礼しましょうか」
讓はしかたなしに左の手に持っている帽子を右の手に持ち替えてあがるかまえをした。
「さあ、どうぞ」
女は障子《しょうじ》の傍を離れてむこうの方へ歩いた。讓は靴脱《くつぬ》ぎへあがってそれから上へあがった。障子の陰に小間使のような十七八の島田《しまだ》に結《ゆ》うた婢《じょちゅう》が立っていて讓の帽子を執《と》りに来た。讓はそれを無意識に渡しながら女の後《あと》からふらふらと跟《つ》いて往った。
※[#ローマ数字「IV」、1−13−24]
長方形の印度更紗《いんどさらさ》をかけた卓《たく》があってそれに支那風《しなふう》の朱塗《しゅぬり》の大きな椅子《いす》を五六脚置いた室《へや》があった
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