つけた。少年は死んだ人のように眼も開けなかった。
二人の人が見えて来た。それは今の婢と魚《うお》の眼をした老婆であった。それを見ると少年の頬に唇をつけていた妹は、すばしこく少年から離れて元の処へ立っていた。
「また手数《てすう》をかけるそうでございますね、顔ににあわない強《ごう》つくばりですね」
老婆は右の手に生きた疣《いぼ》だらけの蟇《がま》の両足を掴《つか》んでぶらさげていた。
「強情っ張りよ」
妹が老婆を見て云った。
「なに、この薬を飲ますなら、理《わけ》はありません、どれ一つやりましょうかね」
老婆が蟇の両足を左右の手に別べつに持つと婢《じょちゅう》が前へ来た。その手にはコップがあった。女はそのコップを老婆の持った蟇の下へやった。
老婆は一声《ひとこえ》唸《うな》るような声を出して、蟇の足を左右に引いた。蟇の尻尾《しっぽ》の処が二つに裂けてその血が裂口《さけぐち》を伝《つと》うてコップの中へ滴《したた》り落ちたが、それが底へ微紅《うすあか》く生なましく溜《たま》った。
「お婆さん、もう好いのでしょ、平生《いつも》くらい出来たのですよ」
コップを持った婢はコップの血をすかすようにして云った。老婆も上からそれを覗《のぞ》き込んだ。
「どれ、どれ、ああ、そうだね、それくらいありゃ好いだろう」
老婆は蟇《がま》を脚下《あしもと》に投げ捨ててコップを受け執《と》った。
「この薬を飲んで利かなけりゃ、もうしかたがない、皆《みんな》でいびってから、餌《えさ》にしましょうよ、ひっ、ひっ、ひっ」
老婆は歯の抜けた歯茎を見せながらコップを持って少年の傍へ往って、隻手《かたて》の指端《ゆびさき》をその口の中へさし入れ、軽がると口をすこし開《ひら》かしてコップの血を注《つ》ぎ込んだ。少年は大きな吐息をした。
讓は奇怪な奥底の知れない恐怖にたえられなかった。彼はどうかして逃げ出そうと窓を離れて暗い中を反対の方へ歩いた。そこには依然として冷たい壁があった。しかし、戸も開けずに廊下から続いていた室《へや》であるから、出口のないことはないと思った。彼は壁を探り探り左の方へ歩いて往った。と、壁が切れて穴のような処があった。讓は今通って来た処だと思ってそこを出た。
ぼんやりした微白《うすじろ》い光が射《さ》して、その前《さき》に広い庭が見えた。讓は喜んだ。玄関口でなくとも外へさえ出れば、帰られないことはないと思った。そこには庭へおりる二三段になった階段がついていた。讓はその階段へ足をかけた。
讓を廊下で抱き縮《すく》めたような女と同じぐらいな年|恰好《かっこう》をした年増の女が、隻手《かたて》に大きなバケツを持って左の方から来た。讓は見つけられてはいけないと思ったので、そっと後戻りをして出口の柱の陰に立っていた。
肥った女はちょうど讓の前の方へ来てバケツを置き、庭前《にわさき》の方へ向いて犬かなんかを呼ぶように口笛を吹いた。庭の方には天鳶絨《びろうど》のような草が青あおと生えていた。肥った女の口笛が止《や》むと、その草が一めんに動きだしてその中から小蛇《こへび》が数多《たくさん》見えだした。それは青い色のもあれば黒い色のもあった。その蛇がにょろにょろと這《は》いだして来て女の前へ集まって来た。
女はそれを見るとバケツの中へ手を入れて中の物を掴《つか》み出して投げた。それはなんの肉とも判らない血みどろになった生生《なまなま》しい肉の片《きれ》であった。蛇は毛糸をもつらしたように長い体を仲間にもつらし合ってうようよとして見えた。
讓は眼前《めさき》が暗むような気がして内へ逃げ込んだ。その讓の体は軟《やわら》かな手でまた抱き縮められた。
「どんなに探したか判らないのだよ、どこにいらしたのです」
讓はふるえながら対手《あいて》を見た。それは彼《か》の年増の女であった。
※[#ローマ数字「VI」、1−13−26]
「あなたは、ほんとにだだっ子ね、そんなにだだをこねられちゃ、私が困るじゃありませんか、こっちへいらっしゃいよ」
年増は讓の双手《りょうて》を握って引《ひっ》ぱった。讓はどうでもして逃げて帰りたかった。
「僕を帰してください、僕は大変な用事があるのです、いることはできないから、帰してください」
讓は女の手を揮《ふ》り払おうとしたが離れなかった。
「そんな無理なことを云うものじゃありませんよ、あなたの御用って、下宿に女の方が待ってるだけのことでしょう」
「そんなことじゃないのです」
「そうですよ、私にはちゃんと判ってるのですよ、その女よりか、いくら家の奥さんが好いか判らないじゃありませんか、ほんとうにあなたは、慾を知らない方ね、こっちへいらっしゃいよ、いくら逃げようとしたって、今度は放しませんよ、いらっしゃいよ」
女はぐんぐんとその手を引ぱりだした。讓の体は崩れるようになって引ぱられて往った。
「放してください」
「だめよ、男らしくないことを云うものじゃありませんよ」
讓は室《へや》の中へ引ぱり込まれた。そこは青い帷《とばり》を張ったはじめの室であった。
「奥様がどんなに待っていらっしゃるか判りませんよ、こちらへいらっしゃいよ」
年増は隻手《かたて》を放してそれで帷を捲《ま》くようにして、無理やりに讓の体をその中へ引込んだ。
そこには真中に寝台があってその寝台の縁《へり》に※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な主婦が腰をかけて、じっと眼を据《す》えて入って来る讓の顔を見ていた。その室の三方には屏風《びょうぶ》とも衝立《ついたて》とも判らないものを立てまわして、それに色彩の濃い奇怪な絵を画《えが》いてあった。
「ほんとにだだっ子で、やっと掴《つか》まえてまいりました」
年増は讓を主婦の傍へ引ぱって往って、主婦のむこう側の寝台の縁へ腰をかけさせようとした。
「放してください、僕はだめです、僕は用事があるのです、僕は厭《いや》です」
讓は年増の女を揮《ふ》り放して逃げようとしたがはなれなかった。
「だめですよ、もうなんと云っても放しませんよ、そんなばかなことをせずに、じっとしていらっしゃいよ、ほんとうにあなたは、ばか、ねえ」
主婦の眼は讓の顔から離れなかった。
「おとなしく、だだをこねずに、奥さんのお対手《あいて》をなさいよ」
年増はおさえつけるようにして讓を寝台の縁へかけさした。讓はしかたなしに腰をかけながら、ただ逃げ出そうとしても逃げられないから、油断をさしておいて隙《すき》を見て逃げようと思ったが、頭が混乱していて落ちついていられなかった。
「そんなに急がなくたって、ゆっくりなされたら好いじゃありませんか」
主婦は年増の放《はな》した讓の手に軽く己《じぶん》の手をかけて、心持ち讓を引き寄せるようにした。
「失礼します」
讓はその手を揮《ふ》り払うとともに起《た》ちあがって、年増の傍を擦《す》り抜けて逃げ走った。
「このばか、なにをする」
年増の声がするとともに讓は後《うしろ》からつかまえられてしまった。それでも彼はどうかして逃げようと思ってもがいたが、揮り放すことはできなかった。
「奥様、どういたしましょう、このばか者はしようがありませんよ」
年増が云うと主婦の返事が聞えた。
「ここへ伴れて来て縛っておしまい、野狐《のぎつね》がついてるから、その男はとてもだめだ」
妹と壮《わか》い婢《じょちゅう》が入って来たが、婢の手には少年を縛ってあったような青い長い紐があった。
「縛るのですか」
婢が云った。
「奥様のお室《へや》へ縛るのですよ」
年増はそう云い云いひどい力で讓を後《うしろ》へ引ぱった。讓はよたよたと後へ引きずられた。
「そのばか者をぐるぐる縛って、寝台の上へ乗っけてお置き、一つ見せるものがあるから、見せておいて、私がいびってやる」
主婦は室の中に立っていた。同時に青い紐はぐるぐると讓の体に捲きついた。
「私が寝台の上に乗っけよう、そのかわり、奥様の後《あと》で、私がいびるのですよ」
年増はふうふうふうと云うように笑いながら、讓の体を軽がると抱きあげて寝台の上へ持って往った。讓はもがいて体を揮《ふ》ったがそのかいがなかった。
「あの野狐《のぎつね》を伴《つ》れてお出で、野狐からさきいびってやる」
主婦はそう云いながら寝台の縁《へり》へまた腰をかけた。讓の眼前《めさき》は暗くなってなにも見ることができなかった。讓は仰向《あおむ》けに寝かされていたのであった。
女達のなにか云って笑う声が耳元に響いていた。讓は奇怪な圧迫を被《こうむ》っている己《じぶん》の体を意識した。そして、一時間たったのか二時間たったのか、怪しい時間がたったところで、顔を一方にねじ向けられた。
「このばか者、よく見るのだよ、お前さんの好きな野狐を見せてやる」
それは主婦の声であった。讓の眼はぱっちり開《あ》いた。年増が壮《わか》い女の首筋を掴《つか》んで立っていた。それは下宿屋においてあった彼《か》の女であった。讓ははね起きようとしたが動けなかった。讓は激しく体を動かした。
「その野狐をひねって見せておやりよ、その野狐がだいち悪い」
主婦が云うと年増は女の首に両手をかけて強く締めつけた。と、女の姿はみるみる赤茶けた色の獣《けだもの》となった。
「色女《いろおんな》が死ぬるのだよ、悲しくはないかね」
讓の眼前《がんぜん》には永久の闇が来た。女達の笑う声がまた一しきり聞えた。
讓の口元から頬にかけて鬼魅《きみ》悪い暖《あたたか》な舌がべろべろとやって来た。
三島讓と云う高等文官の受験生が、数日海岸の方へ旅行すると云って下宿を出たっきりいなくなったので、その友人達が詮議《せんぎ》をしていると、早稲田の某空家の中に原因の判らない死方《しにかた》をして死んでいたと云う記事が、ある日の新聞に短く載っていた。
底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
入力:深町丈たろう
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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