っかく》のなんですけれど、僕は、すこし、今、都合があって急いでいますから、これを一ぱいだけ戴いてから、失礼します」
「まあ、そんなことをおっしゃらないで、こんな夜更《よふ》けに何の御用がおありになりますの、たまには遅く往って、じらしてやるがよろしゅうございますよ」
 女はコップを持ったなりに下顋《したあご》を突きだすようにして笑った。讓もしかたなしに笑った。
「さあ、もうすこしおあがりなさいましよ」
 讓は後《あと》の酒を一口飲んでしまってコップを置くと、腰をすかすようにして、
「折角ですけれど、ほんとうに急ぎますから、これで失礼します」
 女はコップを投げるように置いて、立って来て讓の肩に双手《りょうて》を軽くかけて押えるようにした。
「もう、妹も伺いますから、もうすこしいらしてくださいまし」
 讓の肉体は芳烈にして暖かな呼吸《いき》のつまるような圧迫を感じて動くことができなかった。女の体に塗った香料は男の魂を縹渺《ひょうびょう》の界へ伴《つ》れて往った。
「何人《たれ》だね、今は御用がないから、あちらへ往ってらっしゃい」
 女の声で讓は意識がまわって来た。その讓の頭に己《じぶん》を待っている女のことがちらと浮んだ。讓は起《た》ちあがった。女はもとの椅子に腰をかけていた。
「まあ、まあ、そんなに、お婆さんをお嫌いになるものじゃありませんわ」
 女の艶《なま》めかしい笑顔があった。讓は今|一思《ひとおも》いに出ないとまた暫《しばら》く出られないと思った。
「これで失礼します」
 讓は扉《ドア》のある処へ走るように往って急いで扉を開けて出た。
 廊下には丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った年増《としま》の女が立っていて讓を抱き止めるようにした。
「何人《どなた》です、放してください、僕は急いでるのです」
 讓は揮《ふ》り放そうとしたが放れなかった。
「まあ、ちょっとお待ちくださいましよ、お話したいことがございますから」
 讓はしかたなしに立った。そして、彼《か》の女が追って出て来やしないかと思いながら注意したがそんな容《ふう》はなかった。
「すこし、お話したいことがありますから、ちょっとこちらへいらしてくださいよ、ちょっとで好いのですから」
 年増の女は手を緩めたがそれでも前から退《の》かなかった。
「どんなことです、僕は非常に急いでるのですから、こちらの奥さんの止めるのも
前へ 次へ
全20ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング