のか一疋の蠅が、九兵衛の茶碗を持った方の手首にとまった。
「また蠅がおる」と、九兵衛は驚いた。
 九兵衛と向き合っていた女房も、さっきの蠅のことを思いだした。
「あなたの処におりましたか、私の処にもさっき一疋おりましたよ」
「そうか、今朝帳場で見たよ」と、云って九兵衛が茶碗を盆の上に載せると、蠅は二人の膳の間になった畳の上に移った。
「まあどうした蠅でしょうね、ほんとうに時知らずじゃありませんか」と、女房は箸をやめて畳の上に眼をやった。
「ちと早いな」と、云って九兵衛は飯の入った茶碗を執りあげた。
 女房と婢の間にいた女《むすめ》はふと思いだした。
「それは、さっきの蠅でしょうか」
「そうかも知れんよ、今比《いまごろ》そんなに蠅がおるものか」と、女房が云った。
「店におった奴も、それかも判らない」と、云って九兵衛が畳の上に眼をやるともう蠅はいなかった。「ああ、もう、何処かへ往ったな」
 二時《やつ》時分になって九兵衛が帳場で茶を飲んでいると、蠅の影がまた見えた。蠅は帳場格子の上から机の上におりた。それと前後して表座敷で親類の老人と話していた女房の耳元でも、蠅の羽音が微にした。
 夜にな
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