蠅供養
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)比《ころ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|尾《ぴき》
[#]:入力者注 主に外字の説明
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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火鉢に翳している右の手の甲に一疋の蠅が来て止った。未だ二月の余寒の強い比《ころ》にあっては、蠅は珍らしかった。九兵衛はもう蠅の出る時候になったのかと思ったが、それにしてもあまり早すぎるのであった。
九兵衛は手を動かして蠅を追った。蠅は前の帳場格子の上に往って手足を動かしはじめた。其処は京の寺町通り松原下町にある飾屋であった。店には二三人の小僧がいて、入って来る女客に頭の物をあきなっていた。九兵衛はもう蠅のことは忘れて、近いうちに嫁入りすることになっている親類の女《むすめ》に祝ってやる贈物の方に心をやっていた。
飾屋の奥の室《へや》では女房と女が向き合って針仕事をしていた。女《むすめ》は十七八の人形のような顔をした女であった。女房は時どき女の縫方に細かな注意をしていた。縁側には下半面に朝陽が微紅《うすあか》く射していた。
女房は紅い小さな切れを膝の上でつまもうとした。一疋の蠅が何処からともなく飛んで来て、女房の鋏を持った手にとまった。
「まあ、もう蠅が出たよ」と、女房は不思議そうに云って蠅を見つめた。
女《むすめ》は嫁入りすることになっている親類の女《むすめ》に対する妙な嫉妬を感じて、その女の欠点などをそれからそれと考えていたので、蠅はちょいと見ただけで何も云わなかった。
「この寒いのに、なんぼなんでも、あんまりじゃないか」と、女房はまた云った。
「すこし早いようですわね」と、女《むすめ》は何か考えながら気の無さそうに云った。
「早いとも、早いとも、時知らずの蠅じゃよ」と、女房は女の方を見て、そして、蠅の方に眼をやるともう蠅は見えなかった。
「……もう何処かへ往ったよ、何処へ往ったろう」と、云ってそのあたりを見廻したが、蠅の影は見当らなかった。
午が来て家内同志で飯を喫《く》っていた。主翁《ていしゅ》の九兵衛が空になった茶碗を出すと、その傍にいた婢《じょちゅう》がお給仕の盆を差しだした。と、その盆にとまっていた
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