のか一疋の蠅が、九兵衛の茶碗を持った方の手首にとまった。
「また蠅がおる」と、九兵衛は驚いた。
 九兵衛と向き合っていた女房も、さっきの蠅のことを思いだした。
「あなたの処におりましたか、私の処にもさっき一疋おりましたよ」
「そうか、今朝帳場で見たよ」と、云って九兵衛が茶碗を盆の上に載せると、蠅は二人の膳の間になった畳の上に移った。
「まあどうした蠅でしょうね、ほんとうに時知らずじゃありませんか」と、女房は箸をやめて畳の上に眼をやった。
「ちと早いな」と、云って九兵衛は飯の入った茶碗を執りあげた。
 女房と婢の間にいた女《むすめ》はふと思いだした。
「それは、さっきの蠅でしょうか」
「そうかも知れんよ、今比《いまごろ》そんなに蠅がおるものか」と、女房が云った。
「店におった奴も、それかも判らない」と、云って九兵衛が畳の上に眼をやるともう蠅はいなかった。「ああ、もう、何処かへ往ったな」
 二時《やつ》時分になって九兵衛が帳場で茶を飲んでいると、蠅の影がまた見えた。蠅は帳場格子の上から机の上におりた。それと前後して表座敷で親類の老人と話していた女房の耳元でも、蠅の羽音が微にした。
 夜になって親子三人が行灯の下で話していた。九兵衛が何か云いながら見るともなしに見ると、行灯の障子に墨をつけたように一疋の蠅がとまっていた。
「またおる」と、九兵衛は不吉な物を見つけたように眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
「蠅」と、女房も顔を持って往った。「さっきの蠅でしょうか、あれからお爺さんと話している時にも、耳のはたを飛びましたよ」
「俺の処にも、おやつに茶を喫んでた時におったよ」
「おんなじ蠅でしょうか、潰しましょうか」
「潰さずに撮《つま》んで外へ捨てよう」と、九兵衛は両の掌を持って往って、紙の上にじっとしている蠅を中へすくい込んだ。
「戸を開けてくれ」
 女房は縁側に出て雨戸を細目に開けた。外は暗かった。九兵衛は後から往って掌の中の虫をむこうへ突き放すように捨てて戸を閉めた。
 翌日の午時分、九兵衛と女房は茶の間で火鉢をなかにして、親類の女《むすめ》の嫁入りのことに就いて話していた。
「叔父の処じゃから、箪笥位は買うてやらんといかんじゃろうな」と、云って九兵衛は見るともなしに女房の右の肩端を見ると、一|尾《ぴき》の蠅がとまっていた。「また、蠅が来たぞ」
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