らんだろうが、堀川あたりへ捨てたものが、戻って来やしないだろう」
「そうでしょうか、どうも私は、彼《あ》の蠅が戻って来たような気がしますよ」
女房の眼前の行灯の障子に蠅の影が見えた。
「また蠅が」
と、彼女は恐ろしそうに云った。
九兵衛は横から顔を持って往って一眼見た後に、膝を寄せて往って両手ですくい、それを右の指端《ゆびさき》に軽く撮んで行灯の戸を開けて灯火の光に透して見た。羽にも腹の下にも塗ったままの臙脂《べに》が点《つ》いていた。九兵衛はふと気になった。蠅は指の下をすべり抜けて彼と女房の頭の上あたりを静に飛んだ。
「臙脂が点いておりますか」と、女房は大きな声をするのが恐ろしいと云う容《ふう》に聞いた。
「うむ」と、九兵衛は頷いて見せた。
彼の心は何かに往き当っていた。彼の心には先月亡くなったお玉と云う婢のことが浮んでいた。若狭の生れで宇治の方に伯母が一人あるだけで、他には親も兄弟もない女であった。円顔の小作りな女で飾屋へ四五年も奉公している間に、衣服《きもの》は一枚もこしらえずに百目ほどの銀をためた。
「そんなに銭ばかり集めて、どうするか」
ある日女房が冗談はんぶんに云うと、お玉はこうこたえた。
「お父さんやお母さんの位牌を、お寺へ立てたいから、それで集めております」
そして、昨年の秋になってお玉は常楽寺と云う寺へ両親の位牌を立て、祠堂料として銀七十目を収めたが、その残りの三十目は主人に預けてあった。それが冬になって病気になって次第に重くなって来たので、宇治の伯母の許へ引とられて養生していたが、とうとう先月の十一日に亡くなった。――九兵衛はふと預かって未だそのままになっている女の銭のことを、思いだした。
「お玉の銭を預かっていたな」と、云って彼は女房の顔を見た。
女房は九兵衛と眼を見合しただけで声は出さなかった。蠅はまだ頭の上の方で羽音をさしていた。
「あんなにして、親の位牌をたてた女じゃから、彼の銭で供養でも受けたいと思うておるかも判らんな」
「さようでございますよ」と、女房は体をこわばらせたようにしていた。
「あれの死んだのは、何時であったかな」と、九兵衛は考えて、「十一日か、……それで、そうすると、明日は四十九日じゃな」と、またすこし考えて、「よし明日は勘右衛門に頼んで我家《うち》から三十目足して、六十目にして、通西軒と瑞光寺とに三十目ずつ
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