り少女は顔を出さなかった。
 そのうちに雨が止んで微陽《うすび》が射した。雨の止んだのにいつまでもいるわけにいかなかった。南は詮方《しかた》なしに帰ってきた。
 翌日になって南は、粟《たべもの》と帛《たんもの》を持って廷章の家へ往った。南はそうして少女の顔を待っていたが少女は出てこなかった。南は失望して帰ってきた。
 南は少女を忘れることができなかった。その翌翌日、南は酒と肴を持ってまた廷章の家へ往った。廷章は南のそうするのは賤しい身分の者にも隔てをおかない有徳な人となりの致すところだと思って酷く感激した。
「どうか一度|児《こども》に逢ってやってくださいませ」
 廷章はかの少女を伴れてきた。少女は父親の背後《うしろ》に顔をふせていた。
 南はこうして紹介せられておれば、手に入れることはぞうさもないと思った。南が口を利こうとしたところで、少女は赧《あか》くなっている顔をちらと見せておじぎするなり逃げるように出て往った。
 廷章の家は廷章と少女の二人|生活《ぐらし》であった。南はまた少女の顔を待っていた。間もなく少女の顔は次の室の入口に見えた。南は眼で笑ってみせた。少女は顔をそむけて一方の耳環の碧い玉を見せた。南はその碧い玉に少女の心の動きを見た。
 南は悦《よろこ》んだ。南はその後でも一度少女の赧くなっている横顔を見たが口を利くまでに至らなかった。
 三月位して南はまた廷章の家へ往った。少女は何か用ありそうに二人の話している室へ入ってきた。南はもう廷章に遠慮しなくてもいいので、眼に笑いを見せて睨む真似をした。少女は両手を顔へぴたりと当てて、小鳥のように走って表入口の方へ出て往った。
「これ、お客様に御挨拶をしないのか」
 廷章は南を見て笑った。南は一時間位の後、次の室の入口に此方を正面《まとも》に見て笑いを見せている少女の顔を見た。
「いらっしゃい」
「いやよ」
 少女はそのままひらひらと隠《かく》れて往った。期待していたものが急に近づいたのであった。南は三日おき四日おきに廷章の家へ往って、ますます少女に接近した。
 某日《あるひ》、その日は酒と肴を持って廷章の家へ往ったところで、廷章は野良へ往って留守であった。南は一人で酒を飲みながら機会を待っていた。少女は傍へ来た。南はいきなりその肩に手をかけて引き寄せた。
「いやよ、放してよ」
「なぜ、そんなに僕を嫌うのです」
「でも、いやよ、放してよ」
「まあ、じっとしていらっしゃい、いいじゃないの」
「だめよ、わたし、こんな百姓でも、ちゃんとお嫁に往かなくちゃならないのですもの、そんなみだらなことはいやよ」
 南は口実が見つかった。
「僕は、あなたを弄《もてあそ》ぶつもりじゃないのです、あなたはお父さんから聞いてるかも解らないが、僕は家内がないのです、僕はあなたに結婚してもらいたいのです」
「ほんとう」
「ほんとうですとも」
「きっと」
「きっとですとも」
「じゃ、盟《ちか》ってくれて」
「盟いますとも」
 窓の外には晴れた空が覗いていた。南はそれに指をやった。
「あの、天に盟います」
 少女は南の指をやった方を見た。
「きっと盟う」
「盟いますとも」
 南はそう言って少女を抱きしめるようにした。
 南はその日から廷章の留守に廷章の家へ往くようになった。某日《あるひ》女《むすめ》は南の耳に囁いた。
「いつまでも、こんなことをしてるのはいやよ、どうか、お父さんに話して、正式に結婚してよ」
 南は賤しい農民の女と結婚するのは困ると思ったが、女の心地《きもち》を硬《こわ》ばらしては面白くないので、頷いて見せた。

 晋陽の某《ある》大家へ出入している媒婆《ばいば》があって、それが某日南の家へきた。
「あなたは、あのお嬢さんと結婚なされては如何です」
 その女の美しいということは南も聞いていた。
「そうですね」
「彼処の旦那様が、あなたのことをほめていらっしゃいますから、あなたが結婚なさる腹なら、すぐ纏《まとま》りますが」
「そうですね」
「お嬢さんは美しいかたですし、お金はどっさりありますし」
 なるほどその大家には巨万の富があった。南の心は動いた。
「それじゃ、纏めてもらいましょうか」
 媒婆が帰った後で南はまた廷章の家へ往った。
 女は南に云った。
「早く結婚してよ、わたし体の具合がすこしへんよ」
 女は妊娠していたのであった。南はその日かぎり女の許《もと》へ往かないようになった。
 南に棄てられた女は一人で苦しんでいた。女の体の異状は外見にも解るようになった。廷章は驚いて女をせめた。女は南との関係を話した。廷章はやや安心して人を南の許へやって女を引き取らそうとした。南は詞《ことば》を左右にしてしっかりした返事をしなかった。そのうちに女は分娩した。廷章はどうしても女と児を引き取らそうと
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