竇氏
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)覆《おおい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)南《なん》三|復《ふく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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不意に陽がかげって頭の上へ覆《おおい》をせられたような気がするので、南《なん》三|復《ふく》は騎《の》っている驢《ろば》から落ちないように注意しながら空を見た。空には灰汁《あく》をぶちまけたような雲がひろがって、それを地にして真黒な龍のような、また見ようによっては大蝙蝠《おおこうもり》のような雲がその中に飛び立つように動いていた。そのころの日和癖《ひよりくせ》になっている驟雨《とおりあめ》がまた来そうであった。
南は新しい長裾《ざんさい》を濡らしては困ると思った。南は鞭の代りに持っている羅宇《らう》の長い煙管《きせる》を驢に加えた。其処は晋陽《しんよう》の郊外であった。晋陽の世家《きゅうか》として知られているこの佻脱《こざいし》の青年は、その比《ころ》妻君を歿《な》くして独身の自由なうえに、金にもことを欠かないところから、毎日のように郊外にある別荘へ往来して、放縦な生活を楽しんでいた。
雨はもうぼろぼろ落ちてきた。こうした雨は何処かですこし休んでおれば通り過ぎる。何処か休む処はないかと思って眼をやった。其処は小さな聚落で家の周囲《まわり》に楡《にれ》の樹を植えた泥壁の農家が並んでいた。南は其処に庭のちょいと広い一軒の家を見つけた。自分でもその聚落のことを知っており、また聚落の者で自分の家を知らない者はないと思っている南はすこしも気を置くことなしにその門の中へ入って、驢から飛びおりるなり、それを傍の楡の樹に繋いでとかとか簷下《のきした》へ往った。
雨は飛沫《しぶき》を立てて降ってきた。南はその飛沫を避けて一方の手で長裾にかかった涓滴《しずく》をはたいた。南の姿を見つけて其処の主人が顔をだした。
「これは南の旦那《だんな》でございますか」
それは時おり途中で見かける顔であったが、無論名も知らなければ口を利《き》いたこともない農民であった。
「すこし雨をやまさしてください」
「どうか、お入りくださいませ、いけませんお天気でございます」
南は主人の後から室《へや》の中へ入った。其処は斗《ます》のような狭い室であった。
「ちょっと掃除をいたします」
主人は急いで箒《ほうき》を持って室の中を掃いた。南は主人が自分を尊敬してくれるので悪い心地《きもち》はしなかった。
「どうか、かまわないでください、すぐ失礼しますから」
「どうかごゆっくりなすってくださいませ、こんな陋《きたな》い処でございますが」
主人は次の室へ往って茶を持ってきた。陋いので坐るのを躊躇していた南も坐らない訳にゆかなかった。
「では、失礼します」と言って坐った南は、主人の名が知りたくなったので、「厄介になって、名を知らなくちゃいけないが、あなたの名は、何というのです」
「わたくしでございますか、わたくしは、廷章《ていしょう》と申します、姓は竇《とう》でございます」
主人の廷章はまた次の室へ往ったが、其処で何を為《し》はじめたのかことことという音がしだした。その物音に交って人声も細ぼそと聞えてきたが、窓の外の雨脚に注意を向けている南の耳には入らなかった。その南の雨に注意を向けている眼に酒と肴を運んできた廷章の姿がふいと映った。自分を尊敬していることは知っていても酒まで出すとは思わなかった南は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。南の眼はそれから廷章の入ってきた次の室の入口の方へ往った。入口には料理を手伝っていたらしい少女が縦半身を見せていた。それは粗末な服装《なり》はしているが、十五六の顔の輪廓の整《ととの》った美しい女《むすめ》であった。南はその顔を見のがさなかった。
「お口にあいますまいが、お一つ」
廷章に杯をさされて南はどぎまぎした。城市《みやこ》の世家の来訪を家の面目として歓待している愚直な農民には、南のそうしたたわけた態度などは眼に入らなかった。
「これは、どうも」
肴には鶏の雛を煮てあった。
「どうか、お肴を」
南は気が注《つ》いて箸を持ったが、肴の味もその肴が何であるかということも解らなかった。
「これは結構だ」
南は廷章の隙を見てまた次の室の入口の方を見た。其処には此方を窃《ぬす》み見するようにしている少女の眼があった。少女は惶《あわ》てて往ってしまった。南は廷章に覚られないように杯を持って、再び現れてくる少女の顔を待っていたが、それっき
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