入りくださいませ、いけませんお天気でございます」
南は主人の後から室《へや》の中へ入った。其処は斗《ます》のような狭い室であった。
「ちょっと掃除をいたします」
主人は急いで箒《ほうき》を持って室の中を掃いた。南は主人が自分を尊敬してくれるので悪い心地《きもち》はしなかった。
「どうか、かまわないでください、すぐ失礼しますから」
「どうかごゆっくりなすってくださいませ、こんな陋《きたな》い処でございますが」
主人は次の室へ往って茶を持ってきた。陋いので坐るのを躊躇していた南も坐らない訳にゆかなかった。
「では、失礼します」と言って坐った南は、主人の名が知りたくなったので、「厄介になって、名を知らなくちゃいけないが、あなたの名は、何というのです」
「わたくしでございますか、わたくしは、廷章《ていしょう》と申します、姓は竇《とう》でございます」
主人の廷章はまた次の室へ往ったが、其処で何を為《し》はじめたのかことことという音がしだした。その物音に交って人声も細ぼそと聞えてきたが、窓の外の雨脚に注意を向けている南の耳には入らなかった。その南の雨に注意を向けている眼に酒と肴を運んできた廷章の姿がふいと映った。自分を尊敬していることは知っていても酒まで出すとは思わなかった南は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。南の眼はそれから廷章の入ってきた次の室の入口の方へ往った。入口には料理を手伝っていたらしい少女が縦半身を見せていた。それは粗末な服装《なり》はしているが、十五六の顔の輪廓の整《ととの》った美しい女《むすめ》であった。南はその顔を見のがさなかった。
「お口にあいますまいが、お一つ」
廷章に杯をさされて南はどぎまぎした。城市《みやこ》の世家の来訪を家の面目として歓待している愚直な農民には、南のそうしたたわけた態度などは眼に入らなかった。
「これは、どうも」
肴には鶏の雛を煮てあった。
「どうか、お肴を」
南は気が注《つ》いて箸を持ったが、肴の味もその肴が何であるかということも解らなかった。
「これは結構だ」
南は廷章の隙を見てまた次の室の入口の方を見た。其処には此方を窃《ぬす》み見するようにしている少女の眼があった。少女は惶《あわ》てて往ってしまった。南は廷章に覚られないように杯を持って、再び現れてくる少女の顔を待っていたが、それっき
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