父親は、眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]った。「こりゃ、家の女じゃない、家の女は何処へ往ったのだ」
 南は驚いて新人の方を見た。新人は正面に南の方を見ていた。それは今まで見ていた悲しそうな新人の顔でなくて、輪廓の整った廷章の女の顔であった。南は頭ががんとなって気を失った。同時に怪しい新人は朽木を倒すようにどたりと床の上に倒れた。
「大変です、大変です、奥様が大変です」
 新人の父親が締めかけにしてあった室の扉を蹴開くようにして入ってきた者があった。それは新人に随ってきている婢《じょちゅう》の一人であった。
「奥様が、ど、どうした」
「奥様が桃の樹で大変です」
 新人の父親はいきなり駈けだした。
 婢はその後から随って往った。戸外《そと》には霧のような雨が降っていた。庭へおりると婢が前《さき》にたって後園の方へ往った。其処には桃園《ももぞの》があって、青葉の葉陰に小さな実の見えるその樹の一株に青い紐を懸けて縊死《いし》している者があった。それは新人であった。
 南は喚びさまされてやっと正気づいた。南は起きあがりながら見のこした夢の跡を追うように前を見た。其処には廷章の女の冷やかな死体が横たわっていた。南は恐ろしいので外へ逃げだした。
「旦那様、奥様が大変でございますよ」
 南の傍には媼がいた。媼の頭には新人の凶変のみが映っていた。媼は南を引きずるようにして後園へ往った。
 後園の桃園では女の死体をおろした岳父が狂気のようになって、婢のはこんできた薬湯を口や鼻から注ぎ込んでいた。
「魂《たま》よせじゃ、魂よせじゃ」
 岳父は薬湯の器をほうりだして叫んだ。岳父は女の蘇生しないのはもうその魂が野に迷いでたがためであると思った。婢は近くの巫女《みこ》の家へやられた。巫女は婢といっしょに来て新人の死体の傍へ草薦《こも》をしいて祈った。怪しい猿か何かの叫ぶような巫女の声が暫く続いたが、魂は還ってこないのか新人は蘇生しなかった。岳父は泣きながら女の死体を引き取って帰って往った。
 混惑の裡にあやつり人形のようになっていた南は、要人に注意せられて心をひきしめなくてはならなかった。要人は父親の代からいる老人であった。要人は怪しい死体の始末に困っていた。
「旦那、あのへんな死骸ですが、どうしたものでしょう」
「そうだな」
 南にもどうしていいか解らなかった。
「ぜんたい、ど
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