田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)某《ある》
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 幕末の話である。
 某《ある》商人《あきんど》が深更《よふけ》に赤坂《あかさか》の紀《き》の国《くに》坂を通りかかった。左は紀州邸《きしゅうてい》の築地《ついじ》塀、右は濠《ほり》。そして、濠の向うは彦根《ひこね》藩邸の森々《しんしん》たる木立で、深更と言い自分の影法師が怖《こわ》くなるくらいな物淋しさであった。ふと濠傍《ほりばた》の柳の木の下にうずくまっている人影に気づいた。
 どうやら若い女のようで、悄然《しょうぜん》と袂《たもと》に顔をうずめて泣いているのであった。商人はてっきり身投げ女だと思った。驚かさないようにして女の傍《そば》へ寄って往《い》った。
「どうかしたのかい、姉さん。狭い量見を起しちゃいけないよ」
 女は顔もあげないでしくしくと泣きつづけた。商人は寄り添って腰をかがめた。
「ね、どうしたんだい。姉さん思案にあまることがあるなら、いくらでも力になってやるよ、わけを言って見な」
 女はますます袂へ顔をうずめて泣き入るばかりであった。商人はじれったくなって女の肩へ手をか
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