けた。
「どうしたのだ、姉さん、人が親切に言ってるのだ、わけを言ったらいいじゃないか」
 女はひょいと袂から顔をあげた。それは目も鼻も何もないのっぺら坊であった。
「わ」
 商人は一声叫ぶなり坂を四谷《よつや》の方へ逃げあがった。あがったところに夜鷹蕎麦《よたかそば》の灯があった。商人は鞴《ふいご》のような呼吸《いき》と同時にその屋台へ飛びこんだ。
「大変だ、大変だ」
「どうなすったかね」
 もやもやと立つ湯気の向うにいる親爺《おやじ》はつまらなさそうに言った。
「どうもこうもありゃしねえ、そこで大変な代物に衝《ぶ》っ突《つ》かったんだい」
「追剥《おいはぎ》にでもお会いなすったかね、当世珍らしくもねえ話だ」
「馬鹿にするな、追剥ぐらいで江戸っ児が騒ぐかい。妖怪《ばけもの》に会ったんだい、大変な顔をしてやがったのだ」
「へ、大変な顔、どんな大変な顔でござんした」
「それがおめえ、恐ろしいの何のって、とても一口にゃ言えやしない」
「こんな顔じゃなかったかね」
 親爺はぴしゃりと額《ひたい》を一つ打つなり湯気の間から顔を出した。目も鼻も何もないのっぺら坊だった。
 商人は気を失った。その頃
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