累物語
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)承応《しょうおう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|巳年《みどし》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な
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 承応《しょうおう》二|巳年《みどし》八月十一日の黄昏《ゆうぐれ》のことであった。与右衛門《よえもん》夫婦は畑から帰っていた。二人はその日朝から曳《ひ》いていた豆を数多《たくさん》背負っていた。与右衛門の前を歩いていた女房の累《かさね》が足を止めて、機嫌悪そうな声で云った。
「わたしの荷は、重くてしようがない、すこし別《わ》けて持ってくれてもいいじゃないか」
 与右衛門はそれを聞くと、
「絹川《きぬがわ》の向うまで往ったら、皆、おれがいっしょにして、持ってやる、それまで我慢しな」
 と云った。そこは下総国《しもうさのくに》岡田郡《おかだごおり》羽生村《はにゅうむら》であった。
「そう、それじゃ」
 累は牛のようにのそのそと歩きだした。そして、絹川の土手にとりついた比《ころ》には、※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な樺色《かばいろ》に燃えていた西の空が燻《くすぶ》ったようになって、上流《かわかみ》の方は微《うっ》すらした霧がかかりどこかで馬の嘶《いなな》く声がしていた。与右衛門は歩き歩き途《みち》の前後に注意していた。その与右衛門の眼には凄味《すごみ》があった。
 二人が淡竹《はちく》の間の径《みち》を磧《かわら》の方におりて土橋にかかったところで、与右衛門は不意に累の荷物に手をかけて突き飛ばした。累の体は一とたまりもなく河の中へ落ちて水煙を立てたが、背負っている豆があるのですぐ浮きあがって顔をあげた。それは醜い黒い顔であった。与右衛門はそれを見ると背負っていた豆を投げ捨てるなり、河の中へ飛び込んで悶掻《もが》きながら流れて往く累を荷物ぐるみ水の中へ突きこんだ。
 与右衛門はそうして累を殺し、あやまって河に落ちて死んだと云って、その死骸《しがい》を背負うて家に帰り、隣の人の手を借りて旦那寺《だんなでら》の法蔵寺《ほうぞうじ》の墓地に埋葬した。与右衛門は元貧しい百姓の伜《せがれ》
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