緑衣人伝
田中貢太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)趙源《ちょうげん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西湖|葛嶺《かつれい》の麓

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「王+(「毒」のあしが「母」)」、第3水準1−88−16]瑁《たいまい》
−−

 趙源《ちょうげん》は家の前へ出て立った。路の上はうっすらと暮れかけていた。彼はその時刻になってその前を通って往く少女を待っているところであった。緑色の服装をして髪を双鬟《ちごわ》にした十五六になる色の白い童女で、どこの家のものとも判らないし、また、口を利《き》き合ったというでもないが、はじめて顔を合わした時から、その潤みのある眼元や口元に心を引きつけられていた。そして、翌晩となり、翌々晩となるに従って、二人の間は非常に接近したように思われた。
 その晩は四日目の晩であった。源は今晩こそ少女に言葉をかけようと思っていた。初心《うぶ》な彼は、その翌晩あたりから何か少女に言ってみたいと思い、またできることなら少女を自分の家の中へ連れて往って、話をしてみたいと思っていたが、その機会を捉えることができなかった。彼は天水の生れで、遊学のために銭塘《せんとう》に来て、この西湖|葛嶺《かつれい》の麓に住んでいる者であった。その隣になった荒廃した地所はもと宋の丞相|賈秋壑《こしゅうがく》が住んでいた所である。源は両親もない妻室《かない》もない独身者の物足りなさと物悩ましさを、その少女に依って充たそうとしていた。
 緑の衣裳が荒廃した地所の前に見えた。かの少女が来たのであった。少女はすぐ前へきた。少女の黒い瞳はこっちの方を見ていた。
「あなたは、よくここをお通りになるようですが、何方《どちら》ですか」
 源はきまりがわるかった。女の眼は笑った。
「私はすぐあなたのお隣よ、知らないでしょ」
 その付近には豪家の邸宅が散在しているので、少女もその一軒に住んでいる者であろうと思ったが、他郷からきている彼にはそれが判らなかった。
「そうですか、私も近頃ここへ来たものですから、何方ですか」
「すぐお隣よ」
 少女は近ぢかと寄ってきて笑った。
「では、私の所へも寄っていらっしゃい、お馴染になりましょう」
「あなたは、おひとりね」
 源の手端《てさき》に少女の細《ほっ》そりとした手が触れた。
「ひとりですよ、寄っていらっしゃい」
 源は少女の手を軽く握った。少女は心持ち顔を赤くしたようであったが、振り払おうともしなかった。
「いいでしょう、ちょっと寄っていらっしゃい」
 源は少女の手を引いた。少女は逆らわずに寄ってきた。
 源は少女をいたわるようにして家の中へ入って往った。狭い家の中には、出る時に点《つ》けた燈が燃えていた。源は少女を自分の傍へ坐らせた。
「何人《たれ》も遠慮する者がありませんから、自由にしていらっしゃい」
 少女は始終笑顔をして源を見ていた。
「あなたは、お隣の方だと言いましたね、何方です」
「今に判りますよ」
「さあ、どこだろう」
 源はわざと仰山《ぎょうさん》に言って考えるような容《ふう》をして見せた。
「あなたは、夕方になると、いつもこの前を通っているようですが、どちらか往く所がありますか」
「別に往く所はありませんが、夕方がくると、淋しいから、歩いてるのよ」
「では、今晩は、二人でゆっくり話そうじゃありませんか」
 少女はその晩、源のもとに一泊して朝になって帰って往ったが、それをはじめに夜になるときっと来て泊って往った。源は女が名も住所も言わないので、それを聞きたかった。
「あなたは所も言わなければ、名も言わないが、何という名です」
 ある晩、源がそう言って訊くと、少女は、
「さあ、何という名でしょう」
 と言って笑ったが、やはり名は言わなかった。
「いいでしょう、こうした関係になってるじゃないか、名を言ったっていいでしょう」
「そのうちには、あなたが厭だと思っても、わかる時がありますよ、わざわざ訊かないたっていいでしょう」
「しかし、名ぐらいは訊きたいじゃないか、聞かしてくれてもいいでしょう」
「若い奥様ができたと思ってくださりゃいいじゃないの、それでも、しいて名が聞きたいなら、私はいつも、この緑の衣《きもの》を着ているでしょう[#「いるでしょう」は底本では「いでしょう」]」
 と、片手を胸にやって、その辺《ほとり》をちょっと撫でて見せながら、
「緑衣人《りょくいじん》とでも言ってくださいよ」
 こう言って少女は面白そうに笑った。源もつり込まれて大声に笑った。
「では、緑衣人としておこう、名は、まあ、それでいいとして、所を聞
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング