きたいね」
「所なんかいいじゃありませんか、今にすぐわかりますよ、眼と鼻の間にいる者ですから」
 源はふとこの女は付近の豪家に仕えている侍女でないかと思った。そう思うと双鬟に結うた髪にそれらしい面影があった。

 源はある晩酒を飲んでいた。そこへ少女が入ってきた。源は少女の衣服に指をさした。
「緑の衣あり、緑の衣に黄の裳《もすそ》せり」
 と詩経の句を歌うように言ってから、
「これはあなたのことさ」
 源は面白そうに笑った。少女は顔を赧《あか》くして俯向いてしまった。詩経の句は婢妾《ひしょう》のことを歌ったものであった。源は少女の気に障ったと思ったので、すぐ他のことに話を移してしまった。

 少女はその翌晩から源の許へ姿を見せなかった。そして五六日して来た。
「何故あなたはこなかったのです、どんなにあなたを待ったか知れませんよ」
 少女を待ち兼ねて懊悩《おうのう》していた源は、少女の顔を見るなり恨めしそうに言った。
「でも、あなたは、この間あんなことをおっしゃったじゃありませんか、私はあなたと偕老《かいろう》を思ってるのに、あなたは、私を、妾のように思っていらっしゃるじゃありませんか」
「いや、あれは、あなたが緑の衣を着ているから、その緑から連想して、あんな冗談を言ったばかしで、決してそんな心で言ったではなかったのです」
「そういうことならよろしゅうございますけども、私はあなたをお恨みしましたよ、しかし、それで、あなたも、私の素性をお知りになったでしょう」
「いや、私には判らない」
「もう時期がきましたから、何もかも申しますが、私とあなたとは、もと識りあっておりました、はじめて識りあったのではありません」
「そんなことがあるだろうか、私には判らないが」
 源はどこで知っている女であろうかと考えたが、すぐは思い出せなかった。少女は痛痛しい顔を見せた。
「どうか驚かないで聞いてください、私はほんとうは、この世の者ではありません」
 源は少女の顔を見詰めた。
「でも、決して禍をする者ではありません、あなたと私とは、夙縁《しゅくえん》があります」
 源は夙縁とはどんなことであろうかと思った。
「それを聞かしてください」
「私は宋の賈秋壑《こしゅうがく》の侍女でございます、もと臨安の良家に生れた者でございますが、少《ちい》さい時から囲碁が上手で、十五の春、棊童《きどう》という
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