涼亭
――序に代へて――
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)痩《や》せて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|上手《かみて》から

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+緇のつくり」、第3水準1−86−81]
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蒲留仙 五十前後の痩《や》せてむさくるしい容《なり》をしている詩人、胡麻塩《ごましお》の長いまばらな顎髯《あごひげ》を生やしている。
李希梅 留仙の門下、二十五、六の貴公子然たる読書生。
葉生  浮浪人、二十六、七の背のひょろ長い髪の赤茶けた碧《あお》い眼の青年。
村の男
旅人  甲、乙。

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山東省|※[#「さんずい+緇のつくり」、第3水準1−86−81]《し》川の某山村の街路にある涼亭《りゃんちん》。それは街路の真中に屋根をこしらえ、左右の柱に添えて石台を置いて腰掛けとしたもので、その中を抜けて往来する者が勝手に休んでいけるようになっている。その涼亭の一方は山田で、稲や黍を作り、一方は人家になって十軒ばかりの泥土の小家が並んでいて、前には谷川の水の流れている小溝があり、後には屋根越しに緑葉の間から所どころ石の現われている丘が見えている。それは康熙年間の某《ある》夏の午後のことである。涼亭には蒲留仙《ほりゅうせん》が腰をかけて、長い煙管《キセル》をくわえながらうっとりとして何か考えている。その蒲留仙の右側の石台の上には、壷のような器に小柄杓を添えて、その下に二つ三つの碗を置き、それと並べて古い皮の袋と煙管を置いてあるが、その壷には茶が入れてあり、皮袋には淡巴菰《タバコ》を詰めてある。そして左側には硯に筆を添え、それと並べて反古《ほご》のような紙の巻いたのを置いてある。また足許《あしもと》には焼火したらしい枯枝の燃えさしがあって、糸のような煙が立っている。蒲留仙はこうして旅人を待っていて、茶を勧め、淡巴菰を喫《の》まして、牛鬼蛇神《ぎゅうきじゃしん》の珍らしい話をさせ、それを「聊斎志異《りょうさいしい》」の材料にしているところである。

そこへ村の男が一人|上手《かみて》から来て涼亭の中へ入って来る。竹で編んだ笠を着けて、手の付いた笊《ざる》に瓜《うり》のような物を入れ、それを左の肱《ひじ》にかけているが、蒲留仙を見つけると皮肉な眼付をする。
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村の男 先生と張公の媽媽《かか》じゃ、辛抱がええわえ。今年でもう六年じゃ、毎日毎日、あの坂の上で、張公の帰りを待ってるが、なんぼ待ったところで、水に溺れて死んだ者が戻るもんか。気違いじゃからしかたがないが、考えてみりゃ、可哀いそうなもんじゃ。……時に先生、近頃は面白い話が聞けますか。
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蒲留仙はやっと眼を開けたが、村の男の顔は見ずにめんどくさそうにいう。
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蒲留仙 ……うむ、……うむ、話もね……。
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そして淡巴菰の火が消えているのに気が注《つ》いたようにして、足許の燃えさしに吸いつけて喫《の》む。村の男はそのさまをじろじろと見る。
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村の男 ほんとに学者という者は、辛抱がええな。あの赤い星が、雷のような音をして東へ飛んだ年にも、ここにおったというじゃありませんか。蝗《いなご》が雲のようにこの村へやって来た時にも、先生はここにおりましたな。久しいもんじゃ、辛抱がええ。張公の媽媽の気違いも、先生の足許にゃ寄れないぞ。
蒲留仙 うむ……、うむ……、張公の媽媽か。
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蒲留仙は雁首《がんくび》の大きな煙管に淡巴菰を詰めかえながら相手にならないので、村の男は歩きだした。
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村の男 やれ、やれ、御苦労なことじゃ。茶と淡巴菰の接待をして、蛇の色女に嘗められるような話を聞こうというのじゃ。
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二人の旅人が下手《しもて》から来て、涼亭の口で村の男と擦《す》れ違って入って来る。その一人の甲は、菰《こも》で包んだ量《かさ》ばった四角な包《つつみ》を肩に乗せ、乙は小さな竹篭《たけかご》を右の手に持っている。蒲留仙の眼はその旅人へといく。
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蒲留仙 ああ、旅の方だね、暑かったろうね。休んでいったらいいだろう、茶も淡巴菰もあるから、あげるよ。
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旅人甲は、蒲留仙の方を見てから会釈をする。
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旅人甲 ありがとうございます。【それから乙の顔を見る】休ましてもらおうじゃないか。
旅人乙 よかろう、一ぷくさしてもらおう。
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旅人の二人は蒲留仙の向いへいって、荷物を置き、笠を除って腰をかける。蒲留仙は煙管を置いて、柄杓を持ち、壷の中の茶を二つの碗に入れる[#「入れる」は底本では「人れる」]。
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蒲留仙 茶をおあがり、淡巴菰もあるから、喫《の》みたい方は、勝手におあがり。
旅人甲 それではお茶をいただきます。
旅人乙 私もお茶を先ずいただきまして、後で淡巴菰を一ぷくいただきます。
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旅人甲から先に起って蒲留仙の前へいき、蒲留仙の汲んだ茶を取って飲む。
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蒲留仙 遠慮なしにおあがり、もっと入れてあげよう。
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蒲留仙は柄杓を持ったままである。旅人甲は二はい目の碗をだす。
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旅人甲 それではすみませんが、もう一ぱいどうか。
蒲留仙 いいともたくさんおあがり。
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蒲留仙は旅人甲の碗を取ってそれに茶を汲んでやる。旅人乙は碗を置く。
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旅人乙 私は淡巴菰を一ぷくいただきます。
蒲留仙 さあさあおあがり、淡巴菰はその袋の中に入っている。
旅人乙 ありがとうございます[#「ありがとうございます」は底本では「ありがとうございす」]、それではいただきます。
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旅人甲は二はい目の碗をもらって、それを持ってはじめの所へ行って腰をかける。旅人乙は皮袋に手をやって口を開け、中から淡巴菰を撮《つま》みだして煙管に詰め、足許の燃えさしの火でつけて、一すいして煙をだした後に、これもはじめの所へいって腰をかける。蒲留仙ももう煙管を持って旅人の方を見ている。
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蒲留仙 お前さん方は、どこから来なすった。
旅人甲 労山《ろうざん》からまいりました。
蒲留仙 ほう、労山から来なすったか、それはくたびれたろう。それにこの二、三日は暑いから……。
旅人甲 しかし、山の中はたいへんに涼しゅうございますね、路路いい水はありますし。
蒲留仙 水はいいよ、水のいいのは、山の中にいる者の一徳だ。この茶は、あの谷から湧く水だよ。
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蒲留仙は振りかえって後の人家の屋根越しに見える丘に煙管をさす。
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旅人甲 そうでございますか。
旅人乙 だからお茶でも味がちがいます。
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旅人甲は碗を持ったなりに、旅人乙は煙管を口から離して、ちょっと体を前屈みにし、涼亭の軒越しに眼をやる。
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旅人乙 なるほど、石があって、木があって、仙人のいるような山でございますね。
旅人甲 なるほどそうじゃ。
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蒲留仙は体の位置をなおして、旅人乙の顔を見る。
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蒲留仙 仙人といえば、お前さん方は、珍らしい話を聞いてやしないかね。何か面白そうな話があるなら聞かしてもらいたいが。
旅人乙 面白いはなし、そうでございますね。
蒲留仙 どんな話でもいいよ。狐の話でも、蛇の話でも、狼が女になって人間と夫婦になったというような話でも、悪人の話でも、鬼《ゆうれい》に逢った話でも、なんでもいいよ、わしは毎日、ここにこうしていて、旅の方に、いろいろの話をしてもらっているよ。
旅人甲 それは面白い趣向でございますね。べつにこれという面白い話もございませんが……、そうですな、私が家を出るすこし前に、こんな話を聞きましたが。唐《とう》といいまして、人の噂では、匪徒《ひと》の仲間入りをしているという男ですが、その男が二更《にこう》のころに、酒に酔って歩いておりますと、その晩は月があって、紅い着物を着た女が路のはたに蹲《しゃが》んでおるから、からかってみるつもりになったでしょうね。そっと背後から行って、くすぐると、女が顔をこっちに向けたが、どうでしょう、その顔は、目も鼻もない、つるりっとした白い肉のかたまりじゃありませんか。さすがの男も、きゃッといったきりで、そのままそこへ気絶してしまったのを、ちょうど仲間の者が通りかかって、家へ舁《かつ》いで来て、介抱しましたから、やっと正気になりました。目も、鼻も、口も、何もなくてつるりっとしていたといいますからね。【と、旅人乙の方を向いて】お前さんがこの間話した、子供を斬った傷の話も面白いじゃないか。
旅人乙 そうじゃ、その話をしよう。それは昔だれかに聞いた話だが、【と、煙管の吸殻《すいがら》を吹いて煙管を側へ置きながら蒲留仙の顔を見て】宋城の南店に宿をとっておった男が、夜、月の晩に歩いておりますと、前を老人が歩いてて、月の光で手にしている帳簿のような物を読んでおりますから、お爺《じい》さん、何を読んでおりますかと聞くと、これは婚牘じゃ、お前さん達が婚礼のことを書いてあるというそうです。そして、米市に行ったところで、向うの方からめっかちの嫗《ばあ》さんが、三つ位の女の児を抱いて来ましたが、老人はそれを見ると、あの女の児は君の妻《かない》じゃといいますから、その男はひどく怒って、めっかちの伴《つ》れている子供を妻にしてたまるもんか、けしからんことだといって、伴れている従者にいいつけて、その女の児を殺しにいかしました。従者はいいつけ通り、後からそれをつけていって、人中で女の児の顔を切ってから逃げましたが、後十四年たってその男が高官にのぼったので、刺史をしていた人が娘をくれましたが、その女は綺麗でしたが、平生も眉間《みけん》へ鈿《かんざし》をさげているので、気をつけてみると眉間に傷痕《きずあと》があります、聞きますと、三つの歳に乳母《うば》に抱かれて市中を歩いていて、狂賊に刺されたといいますから、乳母の容貌を聞きますと、めっかちであったといったそうですよ。
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その時いつの間に来たのか葉生が来て、下手の入口を入った[#「入った」は底本では「入つた」]所に立っていたが、いたずらそうな碧眼をぐるぐるやると共に口をだした。
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葉生 そりゃ京兆眉憮《けいちょうびぶ》よ。【葉生は得意そうにして、蒲留仙の前へ来て】先生、今日は、他に何かいい話がありましたか。
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蒲留仙は葉生の胴の方から見あげて、ちらっとその顔を見る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
蒲留仙 あ
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