あ、君か。
葉生 先生お暑いじゃありませんか。【と、茶の方に眼をやって】早速ですが、お茶を一ついただきますよ。
蒲留仙 いいともおあがり。
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旅人二人は話の腰を折られて不快な顔をして見せたが、それとともに遠い行手を思いだしたように、
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旅人甲 それじゃ、もう出かけようか。
旅人乙 そうじゃ、出かけよう。
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そこで旅人甲は空《から》になった碗を持ち、旅人乙は煙管を持って起って、蒲留仙の前へ行って、それぞれもとの所へ置いた。葉生はもう自分で茶を入れて起ったなりに飲んでいる。
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旅人甲 どうもありがとうございました。
旅人乙 どうも御馳走になりました。
蒲留仙 どうもありがとう、いい話を聞いた。ではお大事に。
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旅人は会釈してから荷物の所へいき、笠を着け、荷物をはじめのようにして出ていく。
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葉生 先生、今の話は、京兆眉憮《けいちょうびぶ》の話でしょう、女の児を刺した話は。
蒲留仙 そうだね、似た話だね。
葉生 あれですよ、【二はい目の茶を入れながら】あの話があちこちに伝わっているまに、あんなになったのですよ。
蒲留仙 しかし、それでもいいよ。人の頭をあちこちと潜っていると、違った味のある話になることがあるからね。君は、また何か面白い話を聞いて来てはいないかね。
葉生 一つ面白い話がありますよ。それを話しに来たのです。
蒲留仙 そうかね、それはありがたい。
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蒲留仙は思いだしたように煙管の雁首の方を膝の上に持って来て、新らしく淡巴菰を詰める。
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葉生 私も淡巴菰をいただきますよ。【急いで茶を飲んでしまって、旅人の持っていた煙管を取って淡巴菰を詰め、それに火をつけて、壷の隣へ行って腰をかけ】先生、昨夜聞いた話ですがね。
蒲留仙 そうかね。
葉生 莱州《らいしゅう》から来た秀才の話ですから、つまらない旅人の話とは違いますがね。
蒲留仙 そりゃそうだろう。
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葉生は淡巴菰をうまそうにすぱすぱ喫《の》んで、ちょっと話にかからない。蒲留仙はゆっくりと淡巴菰の煙を吹かす。
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葉生 その話はね、先生、周立五《しゅうりつご》という男の話ですがね、その男は、顴骨《かんこつ》がひっこんでて、頤《あご》がすっこけ、口鬚《くちひげ》も生えないで、甚だ風采《ふうさい》のあがらないうえに、三十二になっても、童子の試にとおらないという困り者でしたが、お父さんに随《つ》いて荊南へ行って、南城の外倉橋の側に宿をとっていると、夢に雉冠絳衣《ちかんこうい》の人が来て、その人は右の手に刀を持ち、左の手に鬚のある首を持っているのですが、その人が周の榻《ねだい》の前へ来るなり、いきなり周の首を斬って、手に持っていた首と易《か》えて行ったので、周はびっくりしてお父さんの足にだきつき、大声をあげたから眼が覚めたのです、眼を覚して、首を撫でてみますと、べつに異状もないので安心したのです。【話し話し吸殻《すいがら》を吹いて、二ふく目の淡巴菰を詰め、それに火をつけて旨《うま》そうに吸い】ところで、その周ですが、それから数日すると、顴骨が高くなり、頤《あご》の骨が張って、そのうえ口鬚が生えてりっぱな顔になりましたが、それからまた一年半ばかりすると、また夢に鬚の白い黒い冠を着けた老人が、長い塵尾《ほっす》を持って、金甲神を伴れて来て、お前の腹を易えてやろう、といったかと思うと、伴れている金甲神が、もう刀を抽《ぬ》いて、周の腹を裂いて、その臓腑をだして滌《あら》って、もとの通りに収め、その上に四角な竹の笠を伏《ふ》せ、釘をその四隅に打ったが、その椎《つち》の音が周の耳に響くがすこしも痛くはなかったそうですよ。【三ぷく目の淡巴菰を詰めて、またそれに火をつけて吸いだす】そこで釘が終ると、老人は塵尾を揮って、「清虚鏡に似たり、元本塵無し」といったのですが、周の夢はそれと一緒に醒めたのですが、それから周の文学が急に進んで、終《つい》に侍講学士になったというのです。これは秀才のいったことですから、無学な旅人などのいった話と違いますよ。
蒲留仙 うむ、そうだろう、面白い話だ、いい話だ。
葉生 さっきの話とは違いますよ。
蒲留仙 違う、いい話だ。では忘れないうちに書いて置こうかね。
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蒲留仙は煙管を置いて左側を向き、静かに筆を執《と》って墨を含まし、一方の手に紙を持って、何かそろそろと書きはじめる。葉生はそれをじろじろ見ながらまた新らしい淡巴菰を詰めて喫《の》みだす。
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蒲留仙 面白い話だ。
葉生 その話はちょっと面白いでしょう。
蒲留仙 面白い、面白い、あれも、これも面白い。
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蒲留仙は頻《しき》りにうなずきながら筆を動かしている。葉生は黙って淡巴菰を喫みながらそれを見ている。
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蒲留仙 面白い、面白い。
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葉生は吸殻《すいがら》を吹きだして、かちりと音をさして煙管を置く。
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葉生 先生、今日はこれで失礼します、すこし急ぎますから。【と、起ちあがって、その時顔をあげた蒲留仙にちょっと会釈してから、はじめに来た方へ歩きながら】また、明日でもいい話を持って来ます。
蒲留仙 ああ、また頼むよ。
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蒲留仙はそのまままた俯向《うつむ》いて筆を動かしている。
李希梅がそこへ静かに入って来る。
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李希梅 先生。
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蒲留仙はうっとりした眼をあげる。李希梅はそれに向ってうやうやしく話をする。
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蒲留仙 李君か、よく来た、まァ掛けたまえ。
李希梅 はい。
蒲留仙 茶はどうだね、あげようかね。
李希梅 あとでいただきます、ほしくはありませんから。
蒲留仙 では淡巴菰は。
李希梅 は、今は、何もほしくはありませんから、あとでまた。
蒲留仙 では、まァ掛けたまえ。
李希梅 はい。【蒲留仙の左側へいって腰を掛けながら】先生、今、葉生が来ていたのでしょう。
蒲留仙 来ていたよ、【と、筆を置き、紙を巻いてそれも硯の側に置いて】逢ったかね。
李希梅 逢いました。今日は、あの男、どんな話をしていったのです。
蒲留仙 いや面白い話をしていったよ。
李希梅 今、世説にある話をしやしなかったのですか。
蒲留仙 どうして、君は、それを知ってるかね[#「知ってるかね」は底本では「知つてるかね」]、【笑い顔をして】聞いたかね。
李希梅 これが、【と、袖に手を入れて古い汚い書籍をだして】これがそこに落ちていたのですよ。きっとあの男が淡巴菰を喫む材料に持って来たものですよ。【と、嘲《あざ》けるように笑って】どの話をしたのです。
蒲留仙 周立五《しゅうりつご》が夢に首を易えられ、腹を洗われる話だよ。
李希梅 先生は御存じになってて、黙って聞いていらしたのですか。
蒲留仙 知ってたが、人の頭をとおすと、また面白い味のできるものだからね。
李希梅 でも淡巴菰を喫みに来るために、持って来るいいかげんな話じゃありませんか、あの男はしかたのない奴ですよ。それにありゃ、中国の者じゃありませんよ、あの髪から眼からいっても。
蒲留仙 そうかも判らない、女真《にょしん》あたりの者かも判らないね。
李希梅 そうですよ、どこの者かも判らない浮浪人ですよ。もう、これからあんな者を側へ寄せつけないがいいですよ、ばかばかしいじゃありませんか。【と、手にしていた書籍を投げるように側へ置いて、重重しい顔をして】こう申しちゃなんですが、先生あなたのような学問と文章をお持ちになりながら、こんなことをなされて一生を終られるは惜しいではありませんか。都の方では、今、天下の学者を集めている時じゃありませんか。都の方へおのぼりになれば、先生を用いるところは、いくらでもあるじゃありませんか。
蒲留仙 いや、君のいってくれてる意味は、よく判っているし、非常にありがたいが、わしはどうも性に合わない。わしも若い時は、儒学によって身を立てようと思ったことがあるが、考えてみれば、大官となり大儒となって、一世に名をあげたところで、ほんとうに心から楽しいか楽しくないか判らない。君達は、わしがこうして牛鬼蛇神《ぎゅうきじゃしん》の話を集めているのを見ると、魔道にでも陥ったように思うだろうが、学者なんていう者は、たとえてみれば、夜と昼とのある世の中に、昼だけの単調な世界に一生あくせくとしていて、淑奇恍惚《しゅくきこうこつ》の夜の世界を知らないような者だよ。
李希梅 はい。
蒲留仙 わしは平生も、狐妻《こさい》を獲て、鬼《ゆうれい》とほんとうの友達になったら、どんなに世の中が深くなるだろうと思うよ。
李希梅 は。
蒲留仙 文学としても、わしは、意味があるように思うが、しかし、これはわし一家の意見だから、決して人に強いるものじゃない。【と、いって気が注《つ》いたように】今日はもう帰ろう、わしの家へ行こうじゃないか。この前に葉生の話した捜神記《そうしんき》の瓜《うり》を乞うた術者の話から、種梨《しゅり》という面白い話をこしらえてあるから、見せるよ。
李希梅 はい。
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蒲留仙が起ちあがって硯の始末をはじめだす。李希梅は時時やって慣れているように、壷をしまってそれを左の胸に抱え、右の手に二本の煙管と皮袋などを持って起つ。蒲留仙は硯を右の手に持ち、左の手に紙と筆とを持ってやっとこさと腰をあげる。
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蒲留仙 さあ帰ろうかね。【といって李希梅の拾って来た書籍に気が注《つ》いて紙と筆とを持って手に取り】明日にでも返してやろうじゃないか。
季希梅 は。
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底本:「聊斎志異」明徳出版社
   1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
   1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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