った。
旅人甲 労山《ろうざん》からまいりました。
蒲留仙 ほう、労山から来なすったか、それはくたびれたろう。それにこの二、三日は暑いから……。
旅人甲 しかし、山の中はたいへんに涼しゅうございますね、路路いい水はありますし。
蒲留仙 水はいいよ、水のいいのは、山の中にいる者の一徳だ。この茶は、あの谷から湧く水だよ。
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蒲留仙は振りかえって後の人家の屋根越しに見える丘に煙管をさす。
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旅人甲 そうでございますか。
旅人乙 だからお茶でも味がちがいます。
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旅人甲は碗を持ったなりに、旅人乙は煙管を口から離して、ちょっと体を前屈みにし、涼亭の軒越しに眼をやる。
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旅人乙 なるほど、石があって、木があって、仙人のいるような山でございますね。
旅人甲 なるほどそうじゃ。
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蒲留仙は体の位置をなおして、旅人乙の顔を見る。
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蒲留仙 仙人といえば、お前さん方は、珍らしい話を聞いてやしないかね。何か面白そうな話があるなら聞かしてもらいたいが。
旅人乙 面白いはなし、そうでございますね。
蒲留仙 どんな話でもいいよ。狐の話でも、蛇の話でも、狼が女になって人間と夫婦になったというような話でも、悪人の話でも、鬼《ゆうれい》に逢った話でも、なんでもいいよ、わしは毎日、ここにこうしていて、旅の方に、いろいろの話をしてもらっているよ。
旅人甲 それは面白い趣向でございますね。べつにこれという面白い話もございませんが……、そうですな、私が家を出るすこし前に、こんな話を聞きましたが。唐《とう》といいまして、人の噂では、匪徒《ひと》の仲間入りをしているという男ですが、その男が二更《にこう》のころに、酒に酔って歩いておりますと、その晩は月があって、紅い着物を着た女が路のはたに蹲《しゃが》んでおるから、からかってみるつもりになったでしょうね。そっと背後から行って、くすぐると、女が顔をこっちに向けたが、どうでしょう、その顔は、目も鼻もない、つるりっとした白い肉のかたまりじゃありませんか。さすがの男も、きゃッといったきりで、そのままそ
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