地のむこうの岩山の腰に露われて、それがむこうの方へ往こうとした。小八は眼を見据えた。少し距離があるうえに微暗いので分明《はっきり》としないが、その姿は女房そっくりであった。小八はもう宿の主翁の戒めも忘れていた。彼は起ちあがって窪地の縁を廻って岩山の腰に走って往った。そして、女房の名を口にしながら女の方へ駈けて往った。
と、そろそろと動いていた女の姿は、急に走るように前の方へ動きだした。小八は狂人《きちがい》のようになって追って往った。彼と女の距離は迫って来た。
小八は女の体を背後《うしろ》から抱き縮めた。女は小八をふり放して逃げようと悶掻いた。小八は動かさなかった。
女にはこの世の人のような柔かな感じがあった。
「どうか見逃しくださいませ、見逃してくださいませ」
と、女はおろおろ声で云って身を悶掻いた。
小八は眼を瞠って額に三角の紙を張った女の横顔を覗き込んだ。
「私が己《じぶん》でしたことでありませんから、どうか見逃してくださいませ」
「……じゃ、お前は亡者でねえのか」
「亡者宿へ売られておる者でございます」
「なあんだ」小八はばかばかしくもあれば忌《いま》いましくもあった
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